マーカーは本荘藩六郷家上屋敷跡です。
関連リンク – 本荘藩六郷家下屋敷跡
本荘藩六郷家
[本荘藩(ほんじょうはん)は、出羽国(後の羽後国)の由利郡にあった藩。藩庁は本荘城(現在の秋田県由利本荘市)に置かれた。
六郷氏は戦国時代には出羽国山本郡六郷を支配する国人領主で、仙北七人衆の一に数えられていた。六郷政乗のとき豊臣秀吉の小田原征伐に従軍し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して小野寺氏を攻撃した。戦後その功績により六郷4500石から、佐竹義宣が移封された後の常陸国新治郡府中に1万石の大名として加増移封された。
元和9年(1623年)に最上氏が改易された後、その旧領である出羽国本荘に2万石で加増移封され、政乗は本荘藩の藩祖となった。以後六郷氏の藩主は11代続いて明治時代に至った。
文化元年(1804年)に起きた文化の大地震では、それまでは潟湖だった象潟(きさかた)が隆起して陸地化したため蚶満寺との間にその土地をめぐって係争が起きている。 (wikipedia・本荘藩より)]
[江戸時代に本荘藩主であった六郷氏が浅草に下屋敷を設けたとき、領内の景勝地である「象潟九十九島」にちなんで、屋敷付近の町名に「浅草象潟町」と名付けました。
昭和41年の住居表示変更までは、象潟1〜3丁目という地名がありましたが、現在は浅草3〜5丁目となっています。
延宝5年(1677)、本荘藩主・六郷氏(2万石の外様大名)は、浅草に下屋敷を設け、付近の町名に「浅草象潟町」と名付けました。領内の景勝地を町名にあてたケースはとても珍しいことでした。
浅草象潟の六郷氏の下屋敷は、敷地面積が1,000坪。表門は北向きに、東は町屋、南に長屋があり、一間幅の溝がそれに沿っていました。今の柳通りに面して表門があり、長屋の一部が大正12年(1923)の関東大震災まで残っていました。
昔は浅草寺の近くに火事があれば、かならず六郷家から家臣が駆けつけ、境内の警備に当たっていました。また、三社の祭礼に必要な馬は六郷家から借用するのが慣例で、年頭に浅草寺の別当が六郷家へ赴くのも恒例行事となっていました。
明治元年(1868)、最後の藩主・六郷政鑑は、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟にくみせず、薩長に加勢しました。このため、新政府ができて政鑑は藩知事、さらに子爵に列せられました。
明治4年(1871)、廃藩置県で本荘藩がなくなった翌年に「浅草象潟町」の地名が生まれたのは「論功行賞の一環では」と推測する史家もおります。
明治5年(1872)、浅草象潟町が誕生しました。町のほぼ中央にある「浅草警察署」は戦前までは「象潟警察署」でした。
明治11年(1878)11月2日、それまでの大区制が廃止されて浅草区が誕生した際、区内120町内の一つが「象潟町」と命名されました。そのとき、旧本荘藩主・六郷政鑑の住居は「象潟町1番地」でした。
大正13年(1924)11月23日、町内の親睦、自治の向上、福利の増進を目的として、象潟町に初めて町会が組織されました。
昭和9年(1934)9月1日、町名整理が行われ、それまでの千束2丁目が象潟1丁目に、象潟町が象潟2丁目に、そして千束3丁目と田町1丁目が象潟3丁目という新表示になりました。つまり旧象潟町(新・象潟町2丁目)を中核として象潟町の地名が拡大されました。 (「姉妹地:東京都台東区 浅草馬道地区町会連合会 | にかほ市公式 …」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 今戸箕輪浅草絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図中央下・浅草寺右に六郷筑前守(六郷政殷)上屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [43]貮拾貮上(安政六年・1859年)」(コマ番号6/10・絵図四つ切右下に六郷筑前守(六郷政殷)居屋敷地、拝借地が描かれています。)
「東京市拾五区区分全図 第十三 浅草区全図 – 特別区協議会」(地図中央の浅草寺右方向、浅間神社の左側に浅草警察署が描かれています。そこの区画、浅草象潟町が本荘藩六郷家上屋敷跡で、1番地が六郷政鑑の住居で、1-6番地が拝領屋敷地、その下7-10番地が拝借地になります。)
カメラ位置は警視庁 浅草警察署北東交差点で、カメラ西南西方向が本荘藩六郷家上屋敷跡になると思います。カメラ北北東方向に浅草富士浅間神社(不二権現)があります。