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橋場の渡し(現白髭橋)
[「白鬚の渡し」とも称されるが、記録に残る隅田川の渡しとしては最も古い渡しのため、幾度も渡しの位置の変更があり名称も一定せず、それぞれ別の渡しとして存在していた可能性も高い。現在の白鬚橋付近にあったものが代表的なものである。律令時代より制定があり、承和2年(835年)の太政官符に「武蔵、下総両国界住田河四艘。元二艘今加二艘右河等。崖岸廣遠。不得造橋。仍増件船(武蔵国と下総国の国境の住田河(隅田川)には現在4艘の渡し舟がある。岸は崖で広く、橋が造れないので2艘から増船した)」と書かれたものが残っており、この「住田の渡し」とはこの渡しと想定されている。奥州、総州への古道があり、伊勢物語で主人公が渡ったのもこの渡しとされている。また、源頼朝が挙兵してこの地に入る際に、歴史上隅田川に最初に架橋した「船橋」もこの場所とされ、「橋場」という名が残ったとも伝えられている。橋場はその歴史的な土地柄から江戸時代から風流な場所とされ、大名や豪商の別荘が隅田川河岸に並んでいたという。そのため有名な料亭なども多く華族や文人などが出入りしていた。明治期に入ってからも屋敷が建ち並んでおり、とりわけ著名な三条実美の別荘である「對鴎荘」が橋場の渡しの西岸にあった。歌川広重が錦絵「墨田河橋場の渡かわら竈」に描いた。白鬚橋の完成に伴い、大正期に廃止されたといわれる。
歌川広重「墨田河橋場の渡かわら竈」(名所江戸百景・ 墨田河橋場の渡かわら竈wikipedia-photo) (wikipedia・隅田川の渡しより)]
「国立国会図書館デジタルコレクション - 〔江戸切絵図〕. 今戸箕輪浅草絵図」(絵図右下に船渡場が描かれている。)、「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 隅田川向島絵図」(絵図右下に渡し場が描かれている。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「其二思河橋場渡」(17-31)、「隅田川渡」(19-19)、「橋場解説-1・左ページ中程から」(17-29)、「橋場解説-2・左ページ中程過ぎまで」(17-34)、「角田河渡」(17-35)、「隅田河合戦之図」(17-36)、「隅田河合戦之図其二」(17-37)「思川解説-1・左ページ10行目より」(17-38)、「思川解説-2、隅田川渡解説・左ページ1行目まで」(17-39)
其二思河橋場渡(拡大図)
[橋場渡西岸からの風景、図会右ページに思川が描かれ、その左側の家並に茶屋と記述、そこの中央に「この所すみだ河のわたし場」と記述され、橋場渡が描かれています。]
隅田川渡(拡大図)
[隅田川から東岸への風景]
角田河渡(拡大図)
隅田河合戦之図(拡大図)
隅田河合戦之図其二(拡大図)
絵本江戸土産 – 橋場の渡シ(拡大図)
「東都名所」(東都名所図絵隅田川渡しの図、東都名所図絵隅田川渡しの図-2、東都名所図絵隅田川渡しの図-3
名所江戸百景[歌川(安藤)広重](墨田河橋場の渡かわら竈・wikipedia-photo)
「東京都立中央図書館 – 隅田川両岸一覧図絵 上、 隅田川両岸一覧図絵 下」より。
橋場の渡し西岸
[初期画面の家並が「隅田川橋場渡之図 柳屋」で描かれる景色に類似しています。家並の間の空き地が橋場渡で、絵図を右にスクロールすると思川、真崎稲荷(石濱神社)が描かれ、参詣のための桟橋と境内地の田楽茶屋が描かれています。]
江戸高名会亭尽(歌川広重) – 隅田川橋場渡之図 柳屋「舟つきの柳屋四季のなかめまて 惟草庵」(wikipedia-photo)
橋場の渡し東岸
カメラ位置は白髭橋東詰めです。