マーカーは仲見世です。
「あられ発祥「評判堂」閉店へ 浅草・仲見世で135年 … – 東京新聞」「浅草仲見世の揚げまんじゅう「金龍山」閉店 – sakuranpost」
仲見世
[雷門から宝蔵門に至る表参道の両側にはみやげ物、菓子などを売る商店が立ち並び、「仲見世」と呼ばれている。商店は東側に54店、西側に35店を数える。貞享2年(1685年)には、表参道に「仲見世」の前身である商店が設けられた。これは、寺が近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに開業を許可したものである。
浅草は近代以降も庶民の盛り場、娯楽場として発達し浅草寺はそのシンボル的存在であった。明治6年(1873年)には境内が公園地に指定され、明治18年(1885年12月27日)には表参道両側の「仲見世」が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わった。寺院建築風の外観を持つ店舗は、関東大震災による被災後、大正14年(1925年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。
仲見世通り鳥瞰写真・wikipedia-photo
仲見世通り鳥瞰写真(黄昏)・wikipedia-photo
仲見世宝蔵門前の氏子各町神輿連合渡御・wikipedia-photo
(wikipedia・浅草寺より)]
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「楊枝店」(16-16)
楊枝店(拡大図)
[仲見世は浅草寺の表参道である。雷門から宝蔵門まで長さ約250mにわたって、参道の両側に朱塗りの店舗が並ぶ。日本で最も古い商店街のひとつであり、いつも活気に溢れている。仲見世という名は、浅草広小路(現在の雷門通り)あたりに並ぶ店と浅草寺観音堂前に並ぶ店との中間、つまり「中店」ということからこの名で呼ばれるようになったともいう。
もともと雷門をくぐったあたりは浅草寺「南谷」といい、参道の両側に支院のいくつかが並んでいた。浅草寺ご本尊・観音さまへの崇敬はもとより、これら支院に祀られていた天照大神宮、秋葉権現、出世大黒天、鹿島明神などの神仏も多くの参拝者を集めていた。
参拝者の増加にともない、浅草寺は付近の住民に境内の清掃を賦役として課すかわりに、南谷の支院の軒先に床店(小屋掛けの店)を出す許可を与えた。貞享2年(1685)頃のことで、これが仲見世の発祥といわれている。
以降、南谷だけでなく、境内には多くの店舗が並ぶようになってゆく。伝法院から宝蔵門寄りの店は役店と呼ばれ、水茶屋が並んでいたのに対し、仲見世は平店と呼ばれる、玩具、菓子、土産品などを売る店舗が主だった。
宝蔵門寄りの店は20軒の水茶屋があったことから俗に「二十軒茶屋」といい、美人の看板娘を置いて人気を集めた。看板娘に惚れ込んで朝から晩まで茶を飲み続ける者もおり、川柳に「おおたわけ 茶店で腹を 悪くする」と詠まれた。 (「仲見世|聖観音宗 あさくさかんのん 浅草寺 公式サイト」より)]
カメラ位置仲見世通で、カメラ西北西方向が享保年間(1716~1736)創業の『梅林堂』です。(浅草 梅林堂 – 浅草/和菓子 [食べログ])
「豆舗 梅林堂 – Google Map 画像リンク」
カメラ北方向が宝蔵門で、カメラ東南東方向が慶応2年(1866年)創業の江戸趣味小玩具『助六』です。
「江戸趣味小玩具 助六 – Google Map 画像リンク」