浅草寺(奥山・花やしき)

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マーカーは花やしきです。

奥山  
[江戸時代中期になると、浅草寺境内西側奥の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが行われるようになり、境内は庶民の娯楽の場となった。天保13年(1842年)から翌年にかけて、江戸三座の芝居小屋が浅草聖天町(猿若町、現・台東区浅草六丁目)に移転し、そうした傾向はさらに強まった。  (wikipedia・浅草寺より)]

金龍山浅草寺解説-6・左絵図は楊枝店です。」(16-16)、

浅草花やしき
[浅草花やしき(あさくさはなやしき)は、東京都台東区浅草二丁目28番1号にある遊園地。1853年(嘉永6年)開園で、日本最古の遊園地とされる。ただし、一度取り壊された後、1947年(昭和22年)に復活した経緯があるため、断絶のない歴史としては前身も含めて1912年(大正元年)開業とされるひらかたパークの方が長い。敷地面積5800m²。国産初、日本で現存最古のローラーコースターがある。現在はナムコの子会社である株式会社花やしきが運営している。
1853年(嘉永6年)に千駄木の植木商、森田六三郎により牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園した。当時の敷地面積は約80000m2だった。江戸期は茶人、俳人らの集会の場や大奥の女中らの憩いの場として利用され、ブランコが唯一の遊具だった。
明治に入り浅草寺一帯を浅草公園地とした際、花屋敷は奥山一帯と共に第五区に指定された。しかし敷地は縮小し、1885年(明治18年)に木場の材木商・山本徳治郎(長谷川如是閑の父)とその長男・松之助が経営を引き継ぐ。翌年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板として掲示した。
この頃でも利用者は主に上流階級者であり、園内は和洋折衷の自然庭園の雰囲気を呈していた。しかし、徐々に庶民にも親しまれるようトラ、クマなど動物の展示などを開始したり、五階建てのランドマーク奥山閣を建設し、建物内に種々の展示物を展示したりした。浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、動物、見世物(活人形、マリオネットヤマガラの芸など)の展示、遊戯機器の設置を行うようになった。
浅草花やしき(2011年11月27日)・wikipedia-photo  (wikipedia・浅草花やしきより)]

[花やしきのはじまりについては、「浅草寺日記」に、嘉永3年(1850年)駒込千駄木・なめし茶屋六三郎が、浅草寺代官所に一通の願書を提出したことが記されています。六三郎の父は、長年浅草寺境内でなめし茶屋を営むかたわら、この地に植木鉢や原木類を少々植えており、境内へ将軍が訪れた祭に通り抜けることもあったそうです。しかし六三郎の父が病身となり、商売を続けることが難しくなってきたので、なめし茶屋を廃業し、隣接の地所を増し借りし四季の草花を植え、植木茶屋に転業したいと、願い出ました。このなめし茶屋六三郎こそ、当時すでに植木屋として人気・実力ともに江戸の万民に認められていた、初代森田六三郎でした。この願いは、すぐに許可されました。それは、手広く草花を植え込み、四季の美しい眺めを絶やさないようにすれば自然に訪れる客も増えて商売が軌道に乗るはずだという初代の主張が認められたとともに、初代の店が繁盛すれば人出も増え、他の店も繁盛するだろうという、浅草寺側の判断もあったといいます。こうして、嘉永文化のさなかに誕生した六三郎の植木茶屋こそが、のちに浅草花やしきとなるのです。
花屋敷がいつ開園したのか、正確な年月日は不明です。しかし神田雉子町の斉藤月岑(さいとうげっしん)が幕末に著した「武江年表(ぶこうねんぴょう)」には、嘉永五年(1852年)の項に「春のころから、浅草寺奥山北西片隅の林、6000坪あまりの所で、大木を伐採し梅の木数株を植え、また四季の草花をも植えて、池を掘って趣向を凝らし、所々に小亭を設けている、夏になって完成し、6月より諸人に遊覧させている、これは千駄木植木屋六三郎の発起である」という記事がみられます。おそらく、以前より大変気に入られていた輪王寺宮(りんのうじのみや・輪王寺宮慈性入道親王)が3月にお成りの後も造成を続け、嘉永5年5月ごろ完成、6月から一般公開されたのでは、と言われています。そして、一般公開から10ヶ月ほどした嘉永6年4月、再び輪王寺宮の浅草寺へのお成りがあり、それぞれのお目見えのすんだ後、「六三郎花屋敷」に立ち寄ったと「浅草寺日記」に記されています。このお成りの記事には明確に「花屋敷」という表現が使われています。この呼称については、輪王寺宮の許可を得ていたという事から、この日が浅草花屋敷の誕生ではないかと思われます。
こうして花屋敷は、輪王寺宮の支援もあり、華々しく開園しました。文人墨客はいうまでもなく、大名たちも雨の夜明け、月の夕など、おりにふれ遊覧していたと記されており、また開園当時は、四季を通し百花百草を栽培しすこぶる雅趣に富み、なかでも牡丹菊細工は高い評判を得ていた。浅草寺の参詣に来た人々の休める場所として、またお見合いの席や茶席としても人気があり、江戸城大奥のお女中方が「花屋敷ならお構いなし」として休憩を許され、大奥では許されない「あんみつやおだんご」を楽しむ事もできたと言います。  (「浅草「花やしき」今と昔 – 神田雑学大学」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 浅草花屋敷図

浅草花やしきのストリートビューです。

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