猿若町

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    猿若町
    [天保12年 (1841年) 10月、堺町(現在の日本橋人形町3丁目)の中村座が失火により全焼、火災は堺町・葺屋町一帯に延焼し、市村座も類焼して全焼、浄瑠璃の薩摩座と人形劇の結城座も被災した。折しも江戸幕府では、老中首座の水野忠邦を中心に天保の改革が推進されていた。改革は逼迫した幕府の財政を立て直すことを目的としたものだったが、水野はこれと同時に倹約令によって町人の贅沢を禁じ、風俗を取り締まって庶民の娯楽にまで掣肘を加えた。特に歌舞伎に対しては、市川團十郎_(7代目)を奢侈を理由に江戸所払いにしたり、役者の交際範囲や外出時の装いを限定するなど、弾圧に近い統制下においてこれを庶民へのみせしめとした。堺町・葺屋町一帯が焼けたことは、こうした綱紀粛正をさらに進めるうえでの願ってもいない機会だった。奉行所は早くも同年暮れには中村座と市村座に芝居小屋の再建を禁じ、一方で幕府は浅草聖天町(しょうでんちょう、現在の台東区浅草6丁目)にあった丹波国園部藩下屋敷を収公。翌天保13年 (1842年) 2月にはその跡地一万坪余りを代替地として中村・市村・薩摩・結城の各座に下し、そこに引き移ることを命じた。聖天町は外堀のはるか外側、堺町・葺屋町からは東北に一里はあろうかという辺鄙な土地だった。水野はそこに芝居関係者を押し込めることで、城下から悪所を一掃しようとしたのである。同年4月、聖天町は江戸における芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名に因んで猿若町(さるわかまち)と改名された。夏頃までには各芝居小屋の新築が完了、9月には中村座と市村座がこの地で杮落しを行なっている。さらに同年冬には木挽町の河原崎座にも猿若町への移転が命じられ、翌天保14年 (1843年) 秋にはこれが完了した。芝居茶屋や芝居関係者の住居もこぞってこの地に移り、ここに一大芝居町が形成された。河原崎座の移転が完了した直後に、幕府では水野が失脚、天保の改革は頓挫する。そして水野の目論見とは裏腹に、猿若町では三座が軒を連ねたことで役者や作者の貸し借りが容易になり、芝居の演目が充実した。また城下では常に頭を悩まされていた火災類焼による被害もこの町外れでは稀で、相次ぐ修理や建て直しによる莫大な損益も激減した。そして浅草寺参詣を兼ねた芝居見物客が連日この地に足を運ぶようになった結果、歌舞伎はかつてない盛況をみせるようになった。浅草界隈はこうして江戸随一の娯楽の場へと発展していく。この猿若町に軒を連ねた中村座・市村座・森田座(または河原崎座)の三座を、猿若町三座という。
    歌川廣重画『東都名所 芝居町繁榮之圖』・wikipedia-photo、猿若町の地図(中央左から中村座・市村座・河原崎座とある。天保末年から安政初年(1843– 55)頃。)・wikipedia-photo渓斎英泉画『猿若町芝居之略圖』(天保13年の猿若町。中央左に中村座、その右に市村座がみえる。その右の雲で被われているところは遅れて移転することになっていた河原崎座の予定地。)・wikipedia-photo  (wikipedia・江戸三座より)]

    [江戸時代末期の芝居町。江戸時代初期以来、堺町(中村座)・葺屋町(市村座)・木挽町(森田座)にあった官許の歌舞伎、操人形の興業小屋が、天保の改革によって天保12(1841)年にこの地へ強制移転を命じられた。町名は、江戸歌舞伎の創始者とされる猿若(中村)勘三郎の名にちなむ。芝居茶屋が並び、座元・役者ら芝居関係者がこの地に定住し、一大歓楽街を形成した。明治の初年まで繁栄したが、その後芝居小屋の移転が相次ぎ、芝居町は失われた。  (「歌川 広重 初代 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 – 国立国会図書館」-「猿若町」より)]

    国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 今戸箕輪浅草絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図下中央に猿若町が描かれています。)

    国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [43]貮拾貮上(安政六・1859年)」(コマ番号7/10・絵図四つ切左下に猿若町が描かれています。)

    国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [42]貮拾貮上」[コマ番号191/203・延宝(1673-1681)年中之形に小出伊勢守(小出英利)と描かれています。コマ番号192/203・天保十三(1842)年之形で猿若町が描かれています。]

    東京市拾五区区分全図 第十三 浅草区全図 – 特別区協議会

    国立国会図書館デジタルコレクション – 丹波国園部藩主小出信濃守候浅草中屋敷林泉全図」(収公前の園部藩庭園画)

    絵本江戸土産 – 猿若町(拡大図)

    名所江戸百景[歌川(安藤)広重](猿わか町よるの景 (現在の台東区浅草6丁目付近)・wikipedia-photo)

    「葛飾北斎 – 浮絵元祖東都歌舞伎大芝居之図」(拡大画像リンク)

    江戸猿若町中村座跡 – Google Map 画像リンク」、「江戸猿若町市村座跡碑 – Google Map 画像リンク」「江戸猿若町守田座碑 – Google Map 画像リンク

    カメラ西北西方向に浅草猿若町案内板(画像リンク)があります。[画像リンク元サイト]

    カメラ東南東方向に浅草猿若町碑があります。

    カメラ北西方向・コンクリート塀左に江戸猿若町市村座跡碑があります。
    [市村座の定式幕は、「黒」「萌葱(緑)」「柿色」三色の引幕で、現在国立劇場が同じ定式幕を使用しています。猿若町では天保末期から明治にかけて1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(後の守田座)があり、芝居町を形成していました。江戸歌舞伎興隆の場となったこの地に昭和39年(1964)に跡碑が建てられました。  (「『江戸猿若町市村座跡碑』|たいとうナビ」より)]

    カメラ西方向に江戸猿若町守田座碑があります。

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