マーカーは福島藩板倉家下屋敷跡です。
関連リンク – 福島藩板倉家上屋敷跡
板倉勝顕
[板倉 勝顕(いたくら かつあき)は、文化11年5月3日(1814年6月20日)陸奥国福島藩9代藩主・板倉勝俊の長男として誕生した。天保5年(1834年)、父の隠居により家督を相続する。
日米修好通商条約が締結され、日本が開港に踏み切ると、藩内特産品の生糸は輸出品の主力となった。慶応2年(1866年)に隠居し、跡を長男・勝己に譲ったが、実質的な藩政を主導し続けた。 (wikipedia・板倉勝顕より)]
板倉勝己
[板倉 勝己(いたくら かつみ)は、嘉永4年3月21日(1851年4月22日)10代藩主・板倉勝顕の長男として誕生した。
慶応2年(1866年)5月2日、父・勝顕の隠居により家督を相続した。幕府から江戸市中取り締まりを命じられた。慶応4年(1868年)3月1日、重臣渋川教之助(後の板倉勝達)を上洛させて、新政府へ恭順の姿勢を示した。新政府の命令により、藩主勝己は江戸から福島に戻り、会津征討の準備に入った。奥羽鎮撫総督参謀・少将醍醐忠敬を受け入れて、奥羽軍事局を設置した。しかし、奥羽越列藩同盟の結成に伴い、佐幕派に転じることになった。閏4月20日、世良修蔵暗殺に福島藩士も加わった。
明治元年(1868年)7月29日、新政府軍による二本松城の攻略をうけて、福島城を開城し、米沢に避難した。同年9月15日、父・勝顕と共に新政府に降伏した。同年9月20日、城下での謹慎を命じられる。10月、東京に移り謹慎した。同年12月7日、新政府から隠居を命じられる。同年12月18日、板倉勝定(8代勝長の次男)の長男の勝達が家督を相続した。 (wikipedia・板倉勝己より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 今戸箕輪浅草絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図四つ切左上・板倉内膳正(前田利友)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [43]貮拾貮上(安政六年・1859年)」(コマ番号2/10・絵図中央に板倉内膳正(前田利友)中屋敷が描かれています。)
カメラ位置は台東区東上野6丁目10地先交差点で、カメラ北東方向が福島藩板倉家下(中)屋敷跡になると思います。