マーカーは隅田公園 (浅草側)です。
蟻の街
[蟻の町の場所は,もともと東京都が恩賜財団同胞援護会に依頼して、住宅を建てるための基盤整備を行おうとしたところだった。同胞援護会は「司法保護団体」新日本学院に下請けをさせ、言問橋と山谷堀間の公園敷地(旧高射砲陣地)に大製材工場と付属する数棟の建物を新築したが、新日本学院はそのまま資金が枯渇してしまい、同胞援護会が建物を差し押さえ、顧問弁護士の藤田元治氏に管理を一任していた。
とはいえ、残土の間、夏草に埋もれた数万坪の管理は困難で、実際多くの浮浪者が利用する状態となる。藤田氏は葛西の漁師水門屋に管理を依頼。水門屋は知り合いの釣師小関氏を藤田氏に推薦。小関氏は近くに住んでいた小沢氏も巻き込み、小沢氏がバタヤを、さらには自主管理の仕切場を始めた。この仕切場を慕って、バタヤが集まってきた。
小沢求氏は1950年1月、同胞援護会顧問弁護士の藤田元治氏のところを訪ねる。要件は二つ、一つはキティ台風で半壊した建物をバタヤで自主管理経営したいと、もう一つは団体の趣意書を作り、名付け親になってほしいということだったという。
この藤田氏のところに書生としていた松居桃楼氏が、氏の著書「蟻の町の奇蹟」によると、会の実際の名付け親であり、趣意書を書いたとのこと。
「蟻の会」設立について
『蟻の会とは、「人間の屑」とさげすまれている浮浪者同志で、お互いに励ましあいつつ、自力で更生してゆこうとする会です。
蟻はあんなに小さなくせに、働きもので、ねばり強く、しかも夏の間にしっかり蓄えておいて、冬になるとあたたかい巣のなかにこもってらくらくと暮らします。それにくらべると、一日雨が降ってもすぐ飢えなければならないルンペンの生活は、蟻以下ではありませんか。
昔、二宮尊徳は、大洪水で田畠も家財もことごとく流されたときに、「天地開闢のころ、なんの経験も道具もなしで、はじめて畑をつくった祖先のことを思えば、再起するのはなんでもない」といいました。
われわれも裸一貫のルンペンになりさがったとはいうものの、蟻の生活のことを思えば、自分たち自身の更生どころか、祖国日本の更生だってできないはずはないと信じます。われわれは蟻のように働き、蟻のように蓄えて、一日も早く協同の楽しい「蟻の家」をもてるようになろうと誓いあいました。
「蟻の家」は廃品の集荷所と倉庫を中心に、お互いの宿泊所や食堂をつくり、衛生設備を完備し、いろいろの娯楽機関を設け、そのうえ、職業斡旋を行ったり、身の上相談にも応じたいと思っています。
現在、東京都には、いわゆるバタヤ(屑拾い)が十五万人いるそうです。そして、この人々の群り集まるところは、常に犯罪の巣であり、悪疫の温床として嫌われ怖れられていますが、われわれはみずから模範となって、この「蟻の運動」を正しく繰りひろげながら、必ず近き将来に東京中のバタヤを蟻の会の会員として、十五万のルンペンがことごとく、楽しい「蟻の家」に住めるようにせずにはおかぬと、心に誓いあっております。
こういう考え方は、あまり気狂いじみた夢だとお思いになる方もあるでしょう。
しかし、もし五百万の東京都民全体が、一日に古新聞一枚ずつ、この「蟻の運動」に提供してくださるだけでも、一年で何億という金額になるのです。ですから、皆さんが、ご不用になった紙屑、ぼろ屑、空罐、空びん、ガラス屑、金物屑、古雑誌、古新聞、板屑、古下駄、残飯の類を、この「蟻の運動」を助けるために、学校や職場でまとめてくださるだけでも、東京都下十五万の浮浪者は必ず更生できるのです。
そして、東京都はまたたく間に、犯罪のない、悪疫の心配のない、美しい町になります。
繰り返して申しますが、われわれはこの運動の名によって一銭の寄附たりともおねだりする気持ちはありません。ただ皆さんが廃品としてお捨てになった品を、拾わせていただき、それを整理し更生することによって、廃品の更生だけでなく、社会から見捨てられた人材を更生し、世界の劣等国に転落した祖国を更生したいのです。
この運動は、皆さんが、もてあましておいでになる街の塵芥を清掃するとともに、犯罪の巣や悪疫の温床をも清掃する運動であります。
どうか、われわれがいやしい浮浪者なるがゆえに、貧しい屑拾いなるがゆえにさげすまれることなく、われわれの夢が一日も早く実現されるよう、ご賛同ご協力くださることを切にお願い申し上げる次第です。』 (「蟻の街の奇蹟&葵会@凌雲院跡地」より)]
[旧「蟻の街」があった一角の初期は、同胞援護会が管理していた製材工場跡と約600坪の土地を元ヤクザの小澤求が同会より借り受け、廃品の仕切り場とするためだった。仕事のない人々を日雇いで雇いあげ、ガラスくず、鉄・銅くず、縄くず、紙くず等を拾い集めて回収させ、再生工場へ送る事業を行った。当時はこのような業務を行う労働者を「バタヤ」と呼んだ。収集して来た物品の買い取り価格が低いため、バタヤの生活は貧しく苦しかった。小澤は自前の仕切り場を開設し、バタヤたちに適切な報酬を支払うことを目指した。小澤の仕切り場での報酬は出来高払いで、仕切り場の労働者とその家族たちを居住させ、仕切り場はいわば生活共同体となった。当時はバタヤたちが公共の土地に無許可で集落を形成する「バタヤ集落」が点在し、小澤の仕切り場もその一つと見なされていた。
小澤が仕切るこの一角では、廃品回収の報酬等に関するトラブルや、地元ヤクザ等と争いが多発し、東京都などの行政は、隅田公園から蟻の街を撤去させるための手段を模索していた。
小澤は自分の仕切る一角で起こるトラブルについて、法的手段で解決しようと考え、同胞援護会が関係する法律事務所に相談した。この事務長が、当時その法律事務所でアルバイトをしながら著作や脚本などを手掛けており、後に『蟻の町のマリア』を執筆することになる松居桃楼だった。松居は、行政や世間の無理解と闘い理想郷を作ろうという小澤の考えに賛同し、自分も法律事務所を辞め、蟻の街に住みながら小澤の相談役に専念することにした。松居は当時40歳になったところだった。
この二人によって蟻の会は結成され、初代会長として小澤が就任した。
蟻の町の課題として、戦後の混乱期に東京都の土地を保持していたため、強制立ち退きをされるリスクがあった。そのため、松井は孤児救済者として知られた修道士であるゼノ・ゼブロフスキーと蟻の町の奉仕に尽力していた北原怜子に協力を依頼し、クリスマスの開催と翌年の聖堂建築を行った。
実は、この件が終わった直後、松居は自分がこのことを言ったことすら忘れてしまったが、この記事と話は様々な人々を大きく動かし、係わった人々や蟻の街、東京のカトリック教会にまで影響を与えた。 ゼノ修道士はこの新聞記事が掲載された後日に東京都の担当者が訪れ、蟻の街がある土地はもともと東京都の土地であり、教会を勝手に建造されては困ると注意を受けた。ゼノは当時「ゼノ神父」と報道されていたが、もともと一介の修道士に過ぎないゼノは、教会を設立できる権限を持っていない。東京都の担当者は事情を把握していなかった。
ゼノと問答を繰り返すうち、担当者は「あの地区で子供博覧会が開催される予定である。だから教会を建てられるとその子供博覧会が開催できない。」という理由でゼノを説得したが、その話が途中から「子供博覧会が終了する翌年5月以降であれば教会を設立してもよい」ということになってしまった。ゼノはこのことを担当者に確認させ、押印つきの念書を書かせた。この押印つきの念書はゼノから小澤に渡り、小澤はこの念書を大事に保管していた。
北原怜子の活動は、松居桃楼のマスコミへの働きかけで「蟻の街のマリア」として新聞・雑誌に記事として取り上げられるようになる。肺結核を病んでいた北原は、病身にもかかわらず蟻の街の子供たちのために奉仕した。松居の説得で、一度は療養のために蟻の街を去ったが、余命が短いと医師に判断された後は、蟻の街に移り住んで療養を続け、蟻の街の住民として死んだ。
蟻の街の子供たちを世話する北原怜子の姿に感動した小澤は、子供たちの勉強部屋を確保するために2階建て家屋を蟻の街に建設する。これは、東京都の隅田公園管理者により取り壊し命令を受けるが、小澤は、ゼノ修道士が以前に東京都の担当者から教会建設を許可する念書を預ったことを思い出す。この2階建て家屋の屋上には大きな十字架を立て、1951年5月13日に「蟻の街の教会」が完成する。3年後の1954年8月29日には、東京大司教により許しを得てカトリック浅草教会の司祭が来てミサが執り行われる。松居がマスコミ相手にその場の思い付きで口にしたカトリック教会の建設だったが、この教会設立が実現することを信じていたのがゼノ修道士であった。
その後、ゼノや北原に影響を受けた小澤を始めとする十数名の蟻の街住民がカトリック教会の洗礼を受けることになった。その中には、当初、カトリック関係者に不信感を持っていた松居もいた。小澤の洗礼名はゼノ、松居の洗礼名はヨゼフである。
東京都は蟻の街を隅田公園から撤去するよう様々な方策を取ってきたが、それはどれも間接的なものであった。この地は、同胞援護会が借り受けて建てた製材工場跡を小澤が同会から正式に借地しているものであり、他のバタヤ部落と違って不法占拠しているものではなかった。しかしながら、東京都側は蟻の街も隅田公園を占拠するバタヤ部落として捉えていた。
蟻の街が成り立ってから5年後に、東京都が代替地を斡旋するから移転するよう移転要求をした。もともと不法占拠ではない蟻の街は、代替地無償提供を求めることができる立場ではあった。しかし、浅草一帯に思い入れがあった小澤は隅田公園をもとの姿に戻したいと以前から希望しており、数年後に移転する計画を持っていた。ただし蟻の街への流入者数が日増しに伸びて行き、適当な移転先がなかなか見つからない状況が続いていたのであった。
そのため、小澤は東京都のこの代替地斡旋による立ち退き要求に同意した。ところが、この移転同意の段階では代替地が決定していなかった。蟻の街の立ち退きのみが決定しており、ある意味では単なる蟻の街の焼き払い計画である可能性があった。
東京都が蟻の街の立ち退きに関する準備を進める中、代替地をなかなか提示しないことにしびれを切らした松居桃楼は、この代替地斡旋の条件による立ち退きを要求して来た東京都の部長のもとに赴き、直談判をした。この時、松居は北原に彼女が愛用しているロザリオをお守り代わりに託されていた。松居は担当部長に北原が託したロザリオと、彼女の著書『アリの町のこどもたち』をその机の上に置き、北原の命をかけた活動、蟻の街が東京都に果たす役割、その経済効果を熱弁した。北原の著書はそのまま部長の机に残してきた。
後日、その担当部長は北原の著書を手に蟻の街を訪問した。彼は応対に出た松居より北原の著作が全て実話だと聞かされ、北原が子供たちの歌声に合わせて伴奏するオルガンの音を耳にし、「今回の換地問題は大変難しい。しかしこの件に関しては、自分は立派な役人であると同時にりっぱな人間でありたい」と回答した。
その後に東京都が斡旋を提示して来た代替地は、東京湾の埋立地の一部である「8号埋立地」の約5000坪であった。ただし、その敷地代2500万円を即金で支払うことが条件となっており、これは蟻の会としては難しい条件であった。蟻の会は移転地に建設する建物やその他の予備経費を換算した場合、敷地代として支払い可能な金額は1500万円、それも5年間での分割支払いにしなければならなかった。この交渉は難航し、蟻の会は難しい局面に立たされた。
数ヶ月後に東京都の担当者に呼び出しがあり、代表者代理として松居が都庁に赴いた。その時の担当者が再提示した条件は、「敷地代1500万円で5年間分割」と言う蟻の会の要求を全面的にのんだものであった。この時、担当係官の机の上には、北原の著書『アリの町のこどもたち』が置いてあった。
この日は1958年(昭和33年)1月20日で、蟻の会設立のちょうど8年目の日だった。なお、3日後の1月23日に北原が死去した。
1960年(昭和35年)6月4日に蟻の街は隅田公園一角より東京都江東区深川8号埋立地へ移転した。敷地面積は16000㎡で、旧蟻の街の10倍であった。新蟻の街では、バタ車と呼ばれた手押し車や重労働であった梱包作業は姿を消し、トラックとベルトコンベヤによる全自動装置によるものに変わった。公衆浴場、児童公園、保育室などの福利厚生施設も建設されるなど、恵まれた社会環境が整備された。蟻の街教会はカトリック枝川教会となって小教区に認められ、現在はカトリック潮見教会と名称を変更している。 (wikipedia・蟻の街より)]
「戦前の東京23区が見渡せる空中写真を地理院地図上で初公開」 – 「隅田公園 (浅草側)」(1945-1950年写真)
「Goo地図 – 昭和22年写真」(古地図 – 昭和22年選択)
現在の隅田公園 (浅草側)のカメラです。