長昌寺

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長昌寺
[日蓮宗の長昌寺は、深栄山と号し、浅草寺座主を務めた寂海法印が、は弘安2年(1279)に当地で日蓮上人の弟子日常との宗論に敗れ、名を日寂と改め、妙昌寺として開山しました。その後水害に遭い、元亨元年(1321)現在地に再興、長昌寺と改めました。元和年間(1615-1624)江戸幕府の有力な譜代大名酒井忠勝によって中興され、江戸時代には正観世音像が庶民の信仰を集めていました。
銅鐘
長昌寺は日蓮宗の古刹で、開創は弘安2年(1279)といわれる(一説に同5年)、開山の日寂は浅草寺座主を務めた天台宗の僧であったが、日蓮の直弟子日常と宗論におよび改宗、橋場に妙昌寺を開いた。その後、水害で堂宇を流失し、元享元年(1321)現在地に再興、長昌寺と改めた。元和年間(1615-1624)江戸幕府の有力な譜代大名酒井忠勝によって中興され、日寂が浅草寺から移したといわれる観音像などが庶民の信仰を集めた。橋場の数か寺にはいわゆる「鐘が淵」の沈鐘伝説があり、長昌寺の鐘もその一つである。現在の銅鐘は、堂宇流失の際に沈んだといわれる鐘の再鋳として、享保5年(1720)22世住持日津および橋場の檀信徒によりつくられた。鐘銘は、飯高檀林化主身延山久遠寺住持にもなった日潮の作になる。また銘文中には、鋳造者の神田鍋物師小幡内匠の名が記されている。昭和19年、重要美術品の認定を受けている。(台東区教育委員会) (「猫のあしあと」より)]

長昌寺資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 今戸箕輪浅草絵図」(絵図右下方向・穢多村右に長昌寺が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [45]貮拾貮下」(コマ番号10・地図穢多屋敷右下に長昌寺が描かれています。)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「長昌寺宗論芝」(17-44)、「深栄山長昌寺解説・右ページ最終行から」(17-42)、「水鶏橋場」(17-43)
長昌寺宗論芝(拡大図)

[中央辺りに長昌寺の「本堂」、「宗論芝」があり、右上タイトル横に「隅田川西岸」とあり、右下に「此辺別荘多し」とあります。  (「歴史散歩 江戸名所図会 巻之六 第十七冊」より)]
[近景に描かれた黒いダルマ型の物体は、瓦を焼くための窯である。江戸時代、橋場町から南の今戸町(現・台東区今戸)にかけては、「今戸焼」と呼ばれる焼き物作りが盛んで、広重の時代には50軒ほどの窯元があったという。釉薬をかけた高級な陶磁器とは違い、低温で素焼きした土器や楽焼の類いで、瓦の他、茶わんや湯飲みなどの食器、かめや火鉢、植木鉢といった生活雑器、招き猫や狐の縁起物も手掛けていた。隅田川西岸を描いた『名所江戸百景』の「長昌寺(現・今戸2丁目) 宗論芝」を見ると、瓦窯は人の背丈を超える大きなものだったようだ。  (「『墨田河橋場の渡かわら竈』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第86回」より)]

水鶏橋場(拡大図)

[水鶏(くいな)は橋場(はしば)のあたり及(およ)び佃島(つくだしま)を佳境(かきょう)とせり。源氏物語(げんじものがたり)にも『なかなかに春秋(はるあき)の花紅葉のさかりなるよりは、ただそこはかとなうしげれるかげともなまめかしきに、くいなのうちたたきたるは、たがかどさしてと、あわれにおぼゆ』とはしるされはべりし  (「歴史散歩 江戸名所図会 巻之六 第十七冊」より)]

長昌寺 – Google Map 画像リンク

カメラ西南西方向が長昌寺山門です。

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