マーカーは今戸橋之図 玉庄跡付近です。
[今戸橋北詰には、安政地震前(1850年代以前)は玉庄という料亭があった。歌川広重はかつて江戸高名会亭尽や東都高名会席尽の中で玉庄を描いている。ところがその玉庄は、安政地震で潰れ、火災で全焼してしまった。安政地震後、神奈川大学の江戸名所百景と江戸地震では、北詰はあらたにオープンした有田楼であるとある。 (「34景 真乳山山谷堀夜景 玉庄とその後 – Amebaブログ」より)]
[有明楼は、安政大地震で潰れた料亭玉庄(金波楼)跡に、安政三年に堀の芸者お菊によって開業し、豪興の士も風流の客も、この楼閣に遊ばぬものはない(成島柳北『柳橋新誌』)とされた料亭。 (「東京料理十八肴 今戸 有明楼 – 味の素 食の文化センター」より)]
江戸高名会亭尽(歌川広重) 「今戸橋之図 玉庄」には狂句合が異なる二つの画があります。
今戸橋之図 玉庄「狂句合 夜光の玉庄燈臺の百目掛」(wikipedia-photo)
今戸橋之図 玉庄「狂句合 雨乞の 笠木の見ゆる 金波楼」(wikipedia-photo)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 今戸箕輪浅草絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図下中央右、山谷堀今戸バシ右に玉庄(金波楼)がありました。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「山谷堀今戸橋慶養寺」(17-47)
[図会左ページに山谷堀と今戸橋、右ページに慶養寺が描かれ、図会から外れて左に本龍院(待乳山聖天)があります。山谷堀口右側に玉庄がありました。]
カメラ位置は山谷堀広場で、カメラ東方向が山谷堀水門になります。この左側に玉庄がありました。