側用人政治

江戸幕府における御側御用人は、征夷大将軍の側近であり、将軍の命令を老中らに伝える役目を担った。役料は、1万石。5代将軍綱吉時代の柳沢吉保、6代将軍家宣・7代将軍家継時代の間部詮房、9代将軍家重時代の大岡忠光、10代将軍家治時代の田沼意次、11代将軍家斉時代の水野忠成などが有名。
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    柳沢吉保上屋敷跡 – 柳沢吉保は元禄元年(1688年)6月10日には西の丸下から一橋内の屋敷に移り、同年11月12日に将軍親政のために新設された側用人に就任した。翌元禄2年(1689年)には一橋内から神田橋内に居を移し、元禄4年(1691年)2月3日には常盤橋内に屋敷を拝領し、同年3月22日には5代将軍綱吉が柳沢邸に御成を行う。
    荻原重秀屋敷跡 – 徳川綱吉並びにその母である桂昌院の散財、生類憐れみの令の採用等と先代家綱の頃からの慢性的な財政赤字は悪化し、この解消を目指し、勘定吟味役(後に勘定奉行)に荻原重秀を登用。荻原重秀は、元禄改鋳を行い、幕府に貨幣発行益をもたらしたが、インフレーションを招き庶民の生活を苦しめることとなったされた、しかし一方で上方を中心に元禄文化が栄えることとなった。徳川家宣の時代になると、新井白石の度重なる弾劾を受けて、正徳2年(1712年)9月11日に勘定奉行を罷免された。
    林鳳岡 – 綱吉は館林藩主の頃より儒学を好んで学んでおり、それが政策に反映された。綱吉は天和の武家諸法度を発布し、礼儀による秩序を構築・強化する為に湯島聖堂を建立し、林鳳岡を大学頭に任命した。4代将軍徳川家綱以後8代将軍徳川吉宗まで5代にわたって幕府に仕えた。しかし、6代徳川家宣の時代には新井白石との確執があった。
    郡山藩柳沢家下屋敷跡(六義園) – 六義園は、柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園である。元禄15年(1702年)に庭園と下屋敷が一通り完成すると、以後将軍綱吉のお成りが頻繁に行われるようになる。その回数は記録されているものだけでも実に58回もあり、吉保の寵臣ぶりもさることながら、この庭園自体が当時にあっても天下一品のものと評価されていたことが窺える。柳沢家は次の柳沢吉里の代に甲府から大和郡山に転封となるが、六義園は柳沢家の下屋敷として幕末<まで使用された。 霊雲寺 – 元禄4年(691年)、浄厳律師覚彦により創建された寺である。浄厳は柳沢吉保の帰依を受け、時の将軍>徳川綱吉から現寺地を得て、霊雲寺を開創した。
    間部越前守詮房上屋敷跡 – 宝永6年(1710年)綱豊は名を徳川家宣と改め、将軍となり、甲府家から幕臣となった間部詮房や白石を重用した。この後間部詮房と白石はを家宣の側近として、後に正徳の治と呼ばれるようになる政治改革を行った。6代将軍家宣・7代将軍家継の側用人であった間部越前守は正徳年中(1711~1715)この地を賜り、後世まで、河岸地に間部河岸(まなべがし)の称が残った。抱一上人の句に  ”夕立や大名走る間部河岸”  と詠まれた場所である。
    間部越前守(御用屋敷) – 「国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書 一 」の「1-91」[宝永元申年(1704)之形]に馬場先門右下に間部越前守(御用屋敷)が描かれています。
    新井白石屋敷跡 – 宝永6年(1709年)、徳川綱吉は62歳で亡くなり、甲府藩主徳川家宣が6代将軍に、次いで7代将軍に幼児の徳川家継が就任する。この期間、家宣の側近である間部詮房と朱子学者の新井白石が政治を主宰した。この時期白石は雉橋門外小川町に屋敷を賜った。
    芝口御門跡(朝鮮通信使) – 新井白石は正徳度朝鮮通信使の待遇改定を実施した。この時、白石の建策にもとづきわが国の威光を顕示するため構築された門。
    切支丹屋敷跡 – 新井白石は切支丹屋敷において、切支丹宣教師ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティの尋問をし、彼の取り扱いについて意見上申を行った。その時の対話をもとに『西洋紀聞』などを著した。
    木下順庵屋敷跡 – 新井白石は、貞享<3年(1686年)になって木下順庵に入門する。順庵は元禄6年(1693年)、白石を甲府藩主徳川綱豊(後の6代将軍徳川家宣)への仕官を推挙した。 室鳩巣屋敷跡 – 室鳩巣は新井白石と木下順庵の同門で、正徳元年(1711年)、新井白石の推挙で、江戸幕府の儒学者となる。徳川吉宗時代にはブレーンとして享保の改革を補佐する。
    新井白石終焉の地 – 家宣の側近として、正徳の治を実践した白石ですが、徳川吉宗が八代将軍になると急速にその地位を失い、城中の御用部屋はもとより、小川町の賜邸も取り上げられ、享保2年(1717年)幕府からこの土地を与えられ、同6年移り住んだここで白石は失意の日々を送りながらも多くの著作を遺しました。
    大岡忠光 – 延享2年(1745年)の徳川家重の第9代将軍就任以後、家重の幼い頃から近侍していた大岡忠光は、不明瞭な家重の言葉を唯一理解できたため、その側近として異例の出世を遂げた。田沼意次が大名に取り立てられたのも家重の時代であり、家重は忠光や意次のような優秀な側近を見出して重用したり、勘定吟味役を充実させている。
    田沼意次上屋敷跡 – 田沼意次は延享2年(1745年)には徳川家重の第9代将軍就任に伴って本丸に仕える。御側御用取次であった宝暦8年(1758年)に呉服橋御門内に屋敷を与えられるとともに、相良藩1万石の領主となった。宝暦11年(1761年)家重が死去した後も、世子の第10代将軍徳川家治の信任を受けて老中として手腕をふるい、所領も加増を重ねた。明和4年(1767年)には神田橋御門内に屋敷を与えられ(この時から「神田橋様」と呼ばれることとなった)、築城を許可されて城主格となった。
    田沼意次は重商主義政策を採用し社会の初期資本主義化を推し進めるとともに、平賀源内などと親交を持ち、蘭学を手厚く保護し、士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用も試みた。しかし、天明4年(1784年)に息子で若年寄の田沼意知が江戸城内で佐野政言に暗殺され、さらに天明6年(1786年)8月25日、将軍家治が死去すると失脚することになる。
    田沼意次屋敷跡 – 明和9年(1772年)7月には田沼意次が、三方相対替でこの地を取得した。
    狩野勝川院屋敷跡 – 木挽町狩野家は始め竹川町(現、銀座7丁目内)にあったが、栄川院(狩野典信)の時に、田沼意次の知遇を受けて、木挽町の田沼屋敷内の西南角に当る、日当たりの好い場所を与えられて、木挽町に住むこととなった。栄川院は意次に気に入られていたので、常に庭伝いに公と往来していた。それで、公事も直接公の執事と相談するより、間接に栄川院に依頼する者が多かったといわれる。
    平賀源内電機実験の地碑 – 平賀源内は、わが国最初の電気学者にして安永5年(1777年)エレキテルを完成し、この付近深川清住町現在の清澄1丁目私宅において電気実験を行ない安永8年(1780年)51歳にて没した。
    平賀源内墓 – この墓所がある地は総泉寺があったところで、寺は関東大震災で罹災したため、昭和3年(1928年)に板橋区に移って再興された。寺が移転した後、墓所だけが残された。墓は昭和18年(1943年)に国の史跡に指定された。
    平賀源内は大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死。杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく、遺体もないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、逃げ延びて田沼意次の保護下で天寿を全うしたとも伝えられるが、いずれも未だにはっきりとはしていない。
    佐野善左衛門宅跡 – 天明4年(1784年)3月24日、佐野善左衛門政言は、江戸城中之間において、老中田沼意次の子で若年寄田沼意知山城守に斬りつけました。田沼意知は傷がもとで4月2日に死去し、佐野政言も翌日切腹を命じられ、御家断絶となりました。しかし、世間からあまり人気のなかった田沼を斬ったということで、世人からは「世直し大明神」として崇められた。
    水野忠成上屋敷跡 – 水野忠成は徳川家斉から政治を委任されて幕政の責任者となったが、その間は田沼時代をはるかに上回る空前の賄賂政治が横行したという。庶民に「水野出て 元の田沼と なりにけり」「びやぼんを 吹けば出羽どん 出羽どんと 金がものいう いまの世の中」などと皮肉られた。
    田沼意正上屋敷跡 – 田沼意次の四男で、水野忠友(水野忠成の父)の養嗣子となるが、意次の失脚により養子縁組を解消されて田沼家に戻る。
    田沼意知の死後に失脚して隠居した田沼意次の跡は、意次孫の龍助(田沼意明)が陸奥1万石に減転封のうえで家督を継ぐことを許されたが、後見した意次がまもなく没し、意明も夭折した。その跡を継いだ意知次男・意壱、四男・意信のいずれも早世し、意知の血筋は絶えた。田沼家の家督はその後、意知の従子にあたる意定、次いで意知の弟・意正が継いだ。
    意正は文政6年(1823年)7月8日、忠友の跡を継いだ水野忠成の推挙や家斉の尽力もあって、旧領である遠州相良への復帰を許され、文政8年(1825年)4月18日、側用人(西丸)となった。

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