元禄赤穂事件

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    「浅野内匠頭邸跡」の碑 – 赤穂藩浅野家上屋敷跡、明暦3年(1657年)から第3代藩主内匠頭が江戸城中で高家旗本・吉良義央に斬りつけ、長矩は切腹、浅野家は改易となった元禄14年(1701)までの間、赤穂藩浅野家上屋敷でした。浅野内匠頭はこの上屋敷で生まれています。
    伝奏屋敷跡 – 朝廷の勅使、院使などが江戸下向に際しての宿舎。
    鍛冶橋跡(吉良上野介屋敷跡) – 元禄11年(1698年)勅額火事まで鍛冶橋御門内に呉服橋に移る前の吉良上野介の屋敷がありました。
    呉服橋吉良上野介屋敷跡 – 元禄11年(1698年)から元禄14年(1701年)まで、本所松坂町に移転するまで、後年北町奉行所となるこの地に吉良上野介の屋敷がありました。
    松之大廊下 – 元禄14年3月14日(1701年4月21日)、浅野匠頭長矩が吉良上野介義央に斬りかかる刃傷事件が起きた場所。
    平川門 – 大奥の通用門で、隣接して城内の死者を運び出す不浄門があり、刃傷事件後、浅野内匠頭は不浄門から城外にだされました。
    一関藩田村家上屋敷跡 – 元禄14年3月14日(1701年4月21日)浅野内匠頭が切腹させた場所。
    吉良上野介屋敷跡 – 刃傷事件後の元禄14年(1701年)9月3日に吉良上野介がこの地を拝領して建設された吉良家上屋敷。
    土屋主税屋敷跡 – 吉良上野介屋敷隣の旗本、赤穂浪士による吉良邸討ち入りが始まると、逵直は浪士たちからの申し状を聞き入れ、吉良家には加勢しないことを約束。
    米沢藩上杉家上屋敷跡 – 吉良上野介の実子・吉良三之助は寛文4年(1664年)閏5月10日出羽米沢藩の第3代藩主上杉綱勝が嗣子の無いままに急死し、末期養子として第4代藩主となり、元禄2年(1689年)11月、実家の吉良家に後継者がいなくなっていたことから、次男の上杉春千代(のちの吉良義周)を父・義央の養子とした。
    梶川半左衛門屋敷跡 – 元禄14年(1701年)3月14日、松之大廊下の刃傷事件に現場に居合わせ、浅野内匠頭を取り押さえたとされる。
    麹町大通り案内図(麹町の赤穂浪士) – 吉良邸討ち入り前、赤穂浪士の一部が麹町に隠れ住んでいたことの紹介。
    小山屋弥兵衛店跡(大石良雄宿) – 大石良金(主税)が先に住居し、その後吉良邸討ち入り前に良雄(内蔵助)が宿する。
    前原伊助住居跡 – 吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移住して「米屋五兵衛」と称して店を開業しながら吉良家の動向をさぐった。
    堀部安兵衛住居跡 – 吉良邸討ち入り前の集合場所の一つ。
    堀部弥兵衛住居跡 – 堀部弥兵衛が娘の養子となった安兵衛と一緒に住んでいた場所。
    一之橋 – 赤穂浪士が吉良邸討ち入りの後、泉岳寺への引き揚げの際に渡った橋。
    赤穂浪士休息の地碑 – 赤穂浪士が吉良邸討入り後、一ツ目通りを引き上げ、途中、乳熊(ちくま)屋味噌店で甘酒の接待を受け休息したとされています。その後、永代橋、豊海橋を渡って泉岳寺へ向ったとされています。
    仙台藩伊達家上屋敷跡 – 吉良邸への討ち入りから泉岳寺へ向かう赤穂浪士たちを仙台藩士が呼び止め、粥を振舞ったといわれています。
    旗本仙石伯耆守屋敷跡 – 吉良義央を討ちとって吉良邸を出た赤穂浪士は、吉田兼亮・富森正因の2名と別れて泉岳寺へ向かい、吉田と富森の両名は、大目付仙石久尚の屋敷へと向かい、自首手続きを行なった。
    泉岳寺 – 元禄赤穂事件の浅野内匠頭と赤穂浪士が葬られている。
    三次藩浅野家下屋敷跡 – 浅野内匠頭の奥方・阿久里(あぐり)は内匠頭の切腹後、赤坂にある実家の三次浅野家下屋敷に引き取られ、落飾して瑤泉院と称して夫の菩提を弔った。
    細川越中守下屋敷跡 – 大石良雄はじめ赤穂浪士17人のお預かりを命じられた。
    松山藩松平隠岐守中屋敷跡 – 大石主税や堀部安兵衛ら赤穂浪士10人のお預かりを命じられた。
    水野監物邸跡(岡崎藩水野家中屋敷跡) – 赤穂浪士9名のお預かりを命じられた。
    毛利甲斐守邸跡(六本木ヒルズ) – 赤穂浪士10名のお預かりを命じられた。
    広島藩浅野家中屋敷跡(現赤坂サカス) – 赤穂藩浅野家の本家筋で赤穂浪士の吉良邸討ち入りの阻止を図ったが失敗した。しかし、その後、赤穂浪士の英雄化に伴い、態度を一変させて大石良雄の三男・大石大三郎など赤穂藩の旧臣を召抱えるようになった。
    深川門前仲町 – 赤穂浪士が吉良邸に討ち入り前に、富岡八幡宮の前の茶屋で最終的な打ち合わせをしたと言われている。
    観音寺 – 赤穂浪士の近松勘六行重と奥田貞右衛門行高が当寺第6世朝山大和尚の兄弟であったことから、赤穂浪士討入り前の会合にもよく使われたとされ、討入り後には赤穂浪士供養塔が建立されました。
    栗崎道有屋敷跡 – 江戸幕府の官医で、元禄14年(1701年)、浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけた際には、上野介の治療を行っている。元禄15年(702年)、上野介が赤穂浪士に斬られた際には、首と胴体の縫合を行ったという。
    南部坂 – 南部坂は、忠臣蔵の名場面のひとつ、大石内蔵助が瑤泉院<に暇乞いに訪れた「南部坂雪の別れ」の舞台として知られている。
    大高源五句碑 – 大高源五は江戸では町人脇屋新兵衛(わきやしんべえ)を名乗った。俳人としての縁から吉良家出入りの茶人山田宗偏に入門して、12月14日に吉良屋敷で茶会があることを突きとめている。
    室鳩巣 – 元禄赤穂事件において赤穂浪士への処罰をめぐり浪士を擁護した。

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