西尾藩松平(西尾大給)家上屋敷跡(東京証券取引所)

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西尾藩松平(西尾大給)家
[西尾藩(にしおはん)は、江戸時代三河国に存在した藩。西尾城(現愛知県西尾市)を居城とした。藩主は、本多家(膳所)、松平家 (大給府内)、太田家、井伊家(与板)、増山家、土井家(刈谷)、三浦家、松平家(大給西尾)が就封した。
江戸時代前期の西尾藩は転封が多く、入封しても十数年で再度移封されるという状況であった。出羽山形藩より松平乗祐が6万石で入封して以降、この状況はようやく解消された。乗祐の家は十八松平家の一つ大給松平家の宗家に当たり、6万石の表高であったが、西尾のみでは石高が足らず、越前国内にも飛び地として所領が与えられた。また松平一門の名門として、摂津尼崎藩桜井松平家と共に諸大夫の筆頭として殿中での拝謁では従五位下の大名の中で最初に拝謁することになっており、以降の歴代藩主は老中として幕政に関与するものが多かった。ただし、幕閣入りしたため、松平家の財政は困窮することが多かった。
第3代藩主松平乗寛松平定信寛政の改革に参与し、幕政改革に従って藩政改革も行ない、幕府機構の取り入れを行なっている。第4代藩主松平乗全井伊直弼安政の大獄で井伊派として一橋派の処分に務めた。
第5代藩主松平乗秩時代の慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、佐幕派と尊王派による大論争が行なわれて藩が分裂の危機に陥ったが、下級武士層による尊王派が大局を占め、尾張藩に従って新政府に与し、存続に苦慮している。明治2年(1869年)の版籍奉還で乗鉄は西尾知藩事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で知藩事を免官され、西尾藩も廃藩となった。
西尾藩は山本周五郎作『町奉行日記』(市川崑により『どら平太』として映画化された)の舞台となった藩のモデルと言われる。  (wikipedia・西尾藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 文久再鐫八町堀霊岸島日本橋南之絵図(文久3[1863]再刻)」[絵図中央右端に松平和泉守(松平乗秩)上屋敷が描かれています。]

カメラ西方向が東京証券取引所を含んだ一画が西尾藩松平(西尾大給)家上屋敷跡になります。

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