西尾藩松平(西尾大給)家・丹後田辺藩牧野家上屋敷跡(東京証券取引所)

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向井将監関連リンク – 向井将監御船手組屋敷案内板(亀島橋)江戸湊発祥跡(御船手屋敷跡)

[楓川を挟んで日本橋1〜3丁目に接する兜町の地は、天正18年(1590)8月の徳川家康の江戸開府までは、海岸部で隅田川河口部の砂洲でした。楓川に沿って埋立てた土地部は、武家屋敷となり、江戸時代初期に海岸線の埋立てを完了しました。
北部の河口部地は丹後田辺(京都府田辺市)藩主牧野家3万5千石の上屋敷でしたが、明治4年(1871)町場となり、はじめて兜町が起立しました。町名の由来は兜神社の兜塚・甲山によると伝えています。  (「日本橋兜町 | 日本橋“町”物語 | 東京都印刷工業組合 日本橋支部」より)]

[開運橋以北の兜町 – 株式取引所や第一銀行のある地区は、江戸開創の当初は要衝の地なので、御船手頭向井将監がこの地を占め、睨みを利かせていた。
 承応江戸図(1652年-1655年)を見ると、その地に「牧野佐渡」と記し、向井将監の邸地は牧野氏南の後の茅場町一丁目後に移っている。牧野氏は、丹波の国加佐郡田辺の藩主で三万五千石を領し、幕末までこの地にあった。
 田辺侯邸は、文政十二年(一八二九)の佐久間町火事に類焼した。『申子夜話続編』に、この度の火災に諸侯よりして市家の富商にいたるまで、焼け損ぜぬものがほとんどなかったのも、今次の大火の怪事に数えられると記しているから、邸は全焼し、園林も手痛い被害を受けたに違いない。
 大火から四・五年経た『江戸勝景』中の「よろゐの渡し」には、すっかり復興した牧野邸の東南角地の風景が描かれていて、当時をしのぶことができる。  (「43.八町堀襍記三 安藤菊二(PDFファイル:1069 KB)」より)]

41.八町堀襍記一 安藤菊二(PDFファイル:1507KB)

丹後田辺藩牧野家
[丹後田辺藩牧野家は京極家に代わり、寛文8年(1668年)に牧野親成摂津国より3万5000石で入城する。 以後、幕末まで牧野家歴代が同藩で封を重ね、明治維新を迎えた。明治2年(1869年)の版籍奉還に際して舞鶴藩と改称された。明治4年(1871年)7月の廃藩置県によって舞鶴県となったが、まもなく再編により消滅している。  (wikipedia・丹後田辺藩#田辺牧野家より)]

田辺藩邸の上地
[安政六(1859)年の神奈川開港にによって、にわかに活撥になった貿易商品の荷動きに対処するため、幕府は万延元(1860)年閏三月、五品江戸廻し令を発して、商品価格や貿易数量の統制をすることにしたが、四月には「御国益御主方詰方会所」設立を企画し、その敷地として、水運の便の好い北八町堀の田辺邸に白羽の矢を立て、家作共居屋敷の上地を命じ、代地として、一橋御門松平豊前守義信の屋敷と入れ替えることを決し、文久二(1862)年二月廿九日、江戸城扶桑間において、老中列座の席で、久世大和守(久世広周)からこの旨を申渡した。この日、別段達として、移転先空屋敷の修理代として、特に壱千両を貸与すること、その上馬喰町御用屋敷の御貸付金の酉年まで上納分を延年にし、且三千両を貸し渡すという、特別の恩典を与えることを伝えた。
 由緒ある屋敷をいきなり取り上げるのだから、幕府としても、大いに優遇策を講じたわけである。しかしながら、突如として屋敷替を命ぜられた田辺侯の迷惑は察するに余りある。
 上地命令の出た牧野邸の坪数は、六五〇九坪半。建家長屋土蔵共一七五六坪。地形は、東五七間五尺。西九三間二尺。南五八間四尺。北九間三尺。六一間三尺。この年五月一八日には家屋敷の植え請渡しがすんだ。
国益主法方の計画は途方もなく大懸りなもので、殆んど実行不可能な計画だったように見える。それかあらぬか二月も経たぬ七月十九日には、国益主法方廃止の通達が出て、役所は引き払われ、係員は役替、地所は家作共本多主膳正(本多康穣)へ当分御預けとなった。
 本多主膳正の一時預地だった国益主方掛の建物は、文久二(1862)年閏八月二一日に、木挽町四町目の屋敷を上地した、松平和泉守乗全に代地として引渡された。  (「49.八町堀襍記九 安藤菊二(PDFファイル:1571.83 KB)」より)]

西尾藩松平(西尾大給)家
[西尾藩(にしおはん)は、江戸時代三河国に存在した藩。西尾城(現愛知県西尾市)を居城とした。藩主は、本多家(膳所)、松平家 (大給府内)、太田家、井伊家(与板)、増山家、土井家(刈谷)、三浦家、松平家(大給西尾)が就封した。
江戸時代前期の西尾藩は転封が多く、入封しても十数年で再度移封されるという状況であった。出羽山形藩より松平乗祐が6万石で入封して以降、この状況はようやく解消された。乗祐の家は十八松平家の一つ大給松平家の宗家に当たり、6万石の表高であったが、西尾のみでは石高が足らず、越前国内にも飛び地として所領が与えられた。また松平一門の名門として、摂津尼崎藩桜井松平家と共に諸大夫の筆頭として殿中での拝謁では従五位下の大名の中で最初に拝謁することになっており、以降の歴代藩主は老中として幕政に関与するものが多かった。ただし、幕閣入りしたため、松平家の財政は困窮することが多かった。
第3代藩主松平乗寛松平定信寛政の改革に参与し、幕政改革に従って藩政改革も行ない、幕府機構の取り入れを行なっている。第4代藩主松平乗全は井伊直弼安政の大獄で井伊派として一橋派の処分に務めた。
第5代藩主松平乗秩時代の慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、佐幕派と尊王派による大論争が行なわれて藩が分裂の危機に陥ったが、下級武士層による尊王派が大局を占め、尾張藩に従って新政府に与し、存続に苦慮している。明治2年(1869年)の版籍奉還で乗鉄は西尾知藩事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で知藩事を免官され、西尾藩も廃藩となった。
西尾藩は山本周五郎作『町奉行日記』(市川崑により『どら平太』として映画化された)の舞台となった藩のモデルと言われる。  (wikipedia・西尾藩より)]

東京都立図書館アーカイブ – 武州豊嶋郡江戸庄圖(寛永9[1632])」(絵図四つ切右下・江戸橋左下に向井将監(向井忠勝)と記述されています。)

東京都立図書館アーカイブ – 承応江戸図武州古改江戸之図(承応2[1653])」(絵図下中央右・江戸橋左下に向井将監(向井正方)と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 新板江戸大絵図(寛文10(1670)刊)」(絵図四つ切右下・江戸バシ左下に牧ノサド(牧野親成)、その左に向将ゲン(向井正方)と記述されています。)

東京都立図書館アーカイブ – 築地八町堀日本橋南絵図(万延元[1860]改正)」(絵図中央右端に牧野豊前守(牧野誠成)上屋敷が描かれています。また、絵図中央左、中程に後に屋敷替えとなる松平和泉(松平乗全)上屋敷が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 増補改正飯田町駿河台小川町絵図(嘉永2[1849]/文久3[1863]改正)」(絵図中央上に牧野讃岐守(牧野誠成)上屋敷が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 文久再鐫八町堀霊岸島日本橋南之絵図(文久3[1863]再刻)」(絵図中央右端に松平和泉守(松平乗秩)上屋敷が描かれています。この以前は丹後田辺藩牧野家上屋敷でした。)

カメラ西方向が東京証券取引所を含んだ一画が西尾藩松平(西尾大給)家・丹後田辺藩牧野家上屋敷跡(東京証券取引所)になります。

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