丹後田辺藩(牧野河内守)上屋敷跡

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丹後田辺藩
[天正18年(1590年)に牧野讃岐守康成武蔵国足立郡石戸に5千石を与えられ、康成の三男の信成慶長4年(1599年)父の遺跡を継ぎ、慶長11年(1606年)より大番頭、小姓組番頭、書院番頭などを歴任した。寛永10年(1633年)の加増で大名に列し、武蔵国石戸藩1万1千石として立藩する。正保元年(1644年)の加増で関宿城主となり、下総国関宿藩入封となる。信成の子親成が段々に加増され、寛文8年(1660年)に封地を移されて丹後田辺藩3万5千万石の藩主になった。以後、幕末まで歴代が同藩で封を重ね、明治維新後に旧藩主家は子爵となり華族に列した。  (wikipedia・西尾藩より)]

[◆『江戸名所図会』には次の記載がある。
鎧の渡し(よろいのわたし)――茅場町牧野家の後ろをいふ。このところより小網町(こあみちょう)への舟渡しを、しか唱へたり。往古は大江(たいこう)なりしとなり。俚諺(りげん)にいふ。永承年間[1046-53]源義家(みなもとのよしいえ)朝臣(あそん)[1039-1106]、奥州征伐のとき、このところより下総国に渡らんとす。ときに暴風吹き発(おこ)り、逆浪(げきろう)天を浸(ひた)し、すでにその船覆(くつがえ)らんとす。義家朝臣、鎧一領(いちりょう)をとって海中に投じ、竜神に手向(たむ)けて、風波の難なからしめんことを祈請(きしょう)す。つひに、つつがなく下総国に着岸ありしより、このところを鎧が淵(よろいがふち)と呼べりとなり(元禄開板の『江戸鹿子』[藤田理兵衛、1687]に、「平将門[?-940]このところに兜・鎧を置く。兜は塚に築きて、牧野侯の庭中にあり」と記せり)。  (「八丁堀周辺 歴史案内〈茅場町・兜町〉 – nifty」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図」(絵図中央右端に牧野河内守と描かれています。)

「国立国会図書館デジタルコレクション」 – 「呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図」(絵図中央下に牧野山城守と描かれています。)

江戸方角安見図鑑. 乾,坤巻」・「ru11_01312_0001_p0016.jpg」(絵図中央の左上に牧野因幡守と描かれています。)

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