与力・仁杉八右衛門家

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与力・仁杉八右衛門家
[与力仁杉家断絶後(下記仁杉五郎左衛門参照)は五郎左衛門の義兄(姉の聟)幸棖が興した仁杉八右衛門家が伊賀守幸通以来の仁杉家を後世に伝えることになった。  (「第8章 与力仁杉家」より)]

[「46.八町堀襍記六 安藤菊二(PDFファイル:1595.02 KB)」に佐久間長敬が記述した「安政日記抄」で長敬が年少の頃の年始廻りについて本人の体験を記述されていて、そこに記述されている年始廻りに訪れた仁杉八右衛門について下記の通り記述されています。
『支配役年番筆頭、南組与力同心の総取締役也。役所にては厳然として、規則も行儀も少しも崩さず、此人出勤すれば人々のつま先しづまりて、座敷自づとしづかになる程勢力ありし、六十巳上の老練家也。されど家に居ては極々円満にて、若い者を愛し折にふれては心切に教訓あり、性来酒は好まず、老後の楽みは書画にて、中にも集めたる扇面その数数万を算(かぞ)へりと云う。』]

八右衛門家成立の経緯
[江戸時代初期から代々与力を襲名して来た与力仁杉家の7代目幸計には、男子があったが与力職には向かないため、八丁掘の医師・宮地要三の長男・長之助を娘の婿養子に迎えた。宮地家でも長之助が医師に向かないと見られたのか、婿養子に出し、弟子を跡継に迎えている。仁杉家に入った長之助は、仁杉家代々の通字「幸」をとって幸堅を名乗り、家督を継ぎ、南町奉行所の与力となった。幸堅は家付き娘である妻との間に男5人、女1人をもうけたが、下のように女子1人以外は生後すぐ、あるいは2,3才で夭折してしまった。
天明7年(1787)、六男が生まれ常松と名付けた。 しかしこれまで5人の男子すべてを失っている幸堅には、六男の無事成長に自信がもてなかった。 この時幸堅は既に42才、このままでは六男にもしもの事があれば仁杉家の相続者がいない事になってしまう。このため、幸堅は与力仲間の加藤九郎兵衛の三男・定三郎を娘の婿養子に迎え、仁杉家の跡取とした。ニ代続けての養子取りである。寛政6年(1794)3月の事である。定三郎は見習与力となって養父幸堅に従い南町奉行所に出仕、翌寛政7年7月に本勤与力となっている。
ところが、丈夫には育つことが危ぶまれていた六男常松が丈夫に育った。養子に家督を継がせ、実子は部屋住み、または他家に養子に、という訳には行かない。幸堅は与力株をもうひとつ手にいれ、これを幸に与え分家とし、常松には与力本家を相続させることにした。 ここにもうひとつの与力仁杉家が成立したのである。
公(おおやけ)に旗本御家人の株を売買する制度があった訳ではないが、裏ではかなり一般的に売買が行われていた。「与力千両、同心百両」という言葉がある。 与力の年俸はおよそ 200 石、金額にすれば 200 両くらいだから、千両は年収の5倍に相当する。これより時代は下がるが、勝海舟の父親・勝小吉川路聖謨など後に著名となった旗本も旗本株を買って世に出たのである。  (「第4編 仁杉八右衛門家四代記 – 第4編 序章」より)]

仁杉五郎左衛門(与力・仁杉本家)
[仁杉五郎左衛門[ひとすぎ ごろうざえもん、?-天保13年1月10日(1842年2月19日)]は江戸時代文化から天保期にかけての南町奉行与力。本名幸生(ゆきなり)。後に幸信(ゆきのぶ)と改名した。駿河国駿東郡仁杉(ひとすぎ)村を発祥の地とする後北条家の家臣・仁杉伊賀守幸通(ゆきみち)から数えて9代目。
天保時代には年番方与力に就任し、天保7年ごろに起きた天保飢饉に苦しむ江戸市民のために各地から米を買い集め、市内に開設したお救い小屋で粥を提供し、飢民を救済することに奔走した。5年後の天保12年(1841年)、このお救い米買付に不正があったと旗本小普請支配(前勘定奉行)の矢部定謙老中首座水野忠邦に告発した。
この時期、南町奉行は筒井政憲だったが、閑職に左遷されていた矢部が返り咲きを狙い、筒井の責任としてこの事件を告発したのである。4月28日、矢部は首尾よく筒井の後任の南町奉行の座に着いた。そして五郎左衛門は同年10月に投獄(伝馬町牢屋敷揚座敷)された。不正とは米業者からの賂、付け届けの類であるが、この当時の習慣から大きく逸脱したものではなく、あまりに片手落ちの処分としている後世の学者もある。
念願の奉行の座についた矢部であったが 就任後のこの事件の処理が適当でなかったと目付鳥居忠耀が老中水野に告発した。水野とは江戸町政について対立関係にあったこともあり、矢部は就任8ヶ月の12月21日に罷免された。そしてその7日後の28日に鳥居が奉行の座についた。
その後水野の意を受けて天保改革という名の下に圧政を推進する。お救い米買付不正事件は幕閣の権力争いの具にされた感がある。
五郎左衛門は投獄の3ヶ月後、天保13年正月10日に獄死している。獄死後の3月21日、評定所で「存命ならば死罪」の判決を受け、二人の男子は三宅島八丈島へ遠島となり、ここに江戸幕府草創時から続いた与力仁杉家は断絶となった。  (wikipedia・仁杉五郎左衛門より)]

仁杉五郎左衛門事件の経緯と、二人の男子の遠島処分とその後については、与力・仁杉家の歴史について詳細を伝えるサイト「仁杉氏・一杉氏 出自考」の「第 10 章 矢部と鳥居」、「第 11 章 奉行所刃傷事件」、「第 12 章 牢屋敷」、「第 13 章 評定所の審理」、「第 14 章 判決」、「第 16 章 兄弟は遠島処分」、「第 17 章 赦免・箱館奉行所勤務 」に記述されています。
また、与力関連史料として同サイトに、「与力とは」、「町奉行所 与力一覧」、「与力家の家計」、「与カの生活」などが掲載されています。

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 八町堀組屋敷図」(コマ番号6/7・九鬼式部少輔右上に仁杉八右衛門が描かれています。」

東京都都立図書館 – 文久新鐫八町堀細見絵図」(絵図四つ切右上・「九鬼式部少輔」下方向に「仁杉八右衛門」が描かれています。)

カメラ南南東方向の一画に与力・仁杉八右衛門家があったようです。

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