与力・山崎助右衛門屋敷跡(烏亭焉馬)

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立川焉馬
[2代目烏亭 焉馬[うてい えんば、寛政4年(1792年、逆算) – 文久2年(1862年)7月23日]本名は山崎嘗次郎。
江戸町奉行与力山崎助左衛門の子。通称を助右衛門。2代目は初代の門下の焉幸が文政11年(1828年)4月に2代目焉馬を襲名。『八犬義士誉勇猛』の作者で咄の会などに出ることなく、立川の家元を称し番付の発行に尽力、一時、近松門左衛門、蓬莱山人帰橋を勝手に継いでいた事もある。別号「松寿庵永年」「七国楼」また「猿猴坊月成」の名で春本も残す。門弟には2代目談笑、初代五明楼玉輔等がいる。  (wikipedia・烏亭焉馬より)]

[戯作者 鳥亭焉馬、二代目。『書畫薈粋』(畑銀雞著 天保三年刊)に、
 『江戸ノ人戯作ニ妙ヲ得テ其名高シ。又俳諧哥ヲコノミテ秀逸多シ。談洲楼焉馬ノ門人トナリ、焉馬没後ソノ名ヲツキテ都下ニ(鳴)ナル』
と評し、住所を八丁堀亀島町代官屋敷山崎甞次郎と載せている。江戸南町奉行所の与力を勤めていた人だからである。延広真治氏によれば、二代目焉馬は与力の身分にありながら、遊蕩のため家督を弟に譲り、分米を得、気随な生涯を過ごし、文政二年焉馬を襲名し立川家元と称して、落語界に君臨、亭号を立川に変えさせたりした。また相撲を好んで行司となり、式守鬼一郎と称したという。文久二年七月没。七一才。妻みよは、御狂言師の傍ら、和歌・絵画をよくし、立川楳(うめ)と称した。天保三年版『書畫薈粋』に、
『八丁堀亀島町代官屋敷 立川梅子
 江戸の人二世焉馬の妻なり。和歌をこのむ。
   あくがれし誰がうた々ねのたまかとよ夢野の花にくるふ古蝶は』
と載せ、『江戸文人寿命附』には、住所を深川一之鳥居とし、
   『たはれたる芸はさておきよみうたと
   手跡で名をば江戸に立川
   極上々吉寿八百五十年』
と載せている。  (「郷土室だより(八丁堀襍記)-アーカイブス中央区立図書館50.八町堀襍記一〇 安藤菊二(PDFファイル:1579.23 KB)」より)]

[「46.八町堀襍記六 安藤菊二(PDFファイル:1595.02 KB)」に佐久間長敬が記述した「安政日記抄」で長敬が年少の頃の年始廻りについて本人の体験を記述されていて、そこに記述されている年始廻りに訪れた山崎助左衛門(烏亭焉馬の弟?)家について下記の通り記述しています。
『山崎助左衛門同じく留守也。これも親類交際の家にて、この家の後妻は加賀町の伊勢屋兵六といへる豪家の娘にて、年来大名の御殿奉公しいけるを、自分の祖父養女に貰請けて里になり、山崎の妻亡(なくな)りし跡へ縁附けし也。四十巳上の女なるが、御殿風の厚化粧、掻取(かいどり)惣模様、行儀正しく随て下女まで折目正しゝ、座敷の飾も行届ていけれど、御殿勤めし女流の会釈(あしらい)巧なる煙に巻かれて、飾附見る暇なく、吸物が出る屠蘇が出る寸分すきもなし。』

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 八町堀組屋敷図」(コマ番号3/7・絵図左側上から2軒目に山崎助右衛門が描かれています。」

東京都都立図書館 – 文久新鐫八町堀細見絵図」(絵図四つ切右下・代官屋敷通り下方向の右側に「与力 山崎助左衛門」と描かれています。)

カメラ位置は与力・山崎助右衛門屋敷跡付近です。

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