桑名藩松平家上屋敷跡

マーカーは桑名藩松平家上屋敷跡です。

桑名藩松平家上屋敷
[寛永年間(1624~43年)に開穿された堀(長さが八丁あった)に因んで付近の町名が八丁堀となり、そこに寛永13年(1636)松平越中守定綱が屋敷を拝領したのが始まりと言われる。江戸時代を通じて上屋敷として使われた。元禄7年(1694)1月23日に門前の堀に架かる橋を越中橋と言ったが、戊辰戦争松平越中守定敬が負けたので、以後は久安橋と改名された。今は堀底が道路となっていて久安橋は健在である。  (「幕末・維新の桑名藩シリーズ04 松平越中守家の江戸屋敷(1)|みえきた市民活動センター」より)]

桑名藩
[桑名藩(くわなはん)は、江戸時代に伊勢国に存在した藩。藩庁は桑名城(現在の三重県桑名市吉之丸)。本多忠勝が前期の桑名藩主として有名なら、後期の藩主として最も有名なのが、幕末動乱の時期に第4代藩主となった>松平定敬である。定敬は会津藩主・松平容保尾張藩主・徳川慶勝らの実弟であり、佐幕派として行動した人物である。一説では坂本龍馬暗殺事件は定敬が指示したものともいわれているほど、幕末期では重きを成した人物で、京都所司代を務めたこともある。慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍の惨敗後、定敬は徳川慶喜に随行した。このため、桑名藩は藩主不在となり、定猷の実子である松平定教が第5代藩主として擁立され、定敬には相談せず、無血開城して新政府軍に恭順した。しかし定敬や立見鑑三郎など一部の藩士は柏崎を拠点として抗戦し、江戸、会津、箱館へと戊辰戦争を転戦したため、桑名藩は逆賊として取り潰された。  (wikipedia・桑名藩より)]

矢部駿河守預り
[矢部駿河守は天保 13 年(1842)3月 21 日、評定所に於いて改易、桑名藩松平家預けの判決を受けた。 11 万石の桑名藩にとっては大きな出来事。その時の一部始終を記し
た史料が残っている。 桑名藩の地元桑名市博物館はこれらの史料の主なものを集め 「桑名藩矢部駿河守預り関係史料」として発行している。
矢部預かりに関わった家臣たちの口上書によれば、この日松平家に水野越前守から呼び出しがあった。家臣が出頭したところお預け処分となる者がいるので、別紙書付のとおりの人数の家来を遠山左衛門尉屋敷前に派遣し、評定所から案内があり次第その受け取るように指示があった。 この時お預けになる人の名前は知らされなかった。
松平家留守居役水野清左衛門、目付八木助左衛門が指示された人数の家来を召し連れ、指定された所に行くと、大目付初鹿野美濃守、町奉行遠山左衛門尉目付榊原主計頭列座にて、矢部駿河守を桑名藩松平和之進に預ける旨、申し渡しがあったという。桑名藩は請け書を提出して本八丁掘の上屋敷に連れ帰り「囲所」を設けて、矢部を収容し、番士が昼夜入念に警固した。
4月4日、矢部を在所(桑名)に送る伺書を月番老中真田信濃守に提出したところ翌日「勝手次第」ということであったので、5月1日、矢部護送の行列を仕立て桑名に向けて出立した。 護送の行列はお上をはばかったのか表街道たる東海道を避け、中山道から西に向かったという。  (「第 18 章 矢部定謙のその後 – 仁杉八右衛門家」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 新板江戸大絵図[出版年月日・寛文10(1670)刊」(絵図四つ切右下・楓川下に「松平越中」(松平定重)と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図[天保九(1838)年]」[絵図中心より右上に松平越中守(松平定和)と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図[嘉永二(1849)年]」[絵図右中央付近・松平越中守(松平定猷)が桑名藩松平家上屋敷です。]

国立国会図書館デジタルコレクション – [慶応改正御江戸大絵図](出版年月日・慶応3 [1867])」[コマ番号5/5・絵図右上、楓川左下に「松平越中」(松平定敬)上屋敷が描かれています。]

カメラ位置は久安橋東詰めで、カメラ東南東方向・道路両サイド一画が桑名藩松平家上屋敷でした。

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