江戸橋、四日市跡

マーカーはカメラ位置です。

江戸橋
[17世紀に大船町(後に本船町)と本材木町の間の日本橋川に架けられた。当初の位置は現在より下流にあり、すぐ東脇を楓川が縦貫していた。寛永9年(1632年)成立の『武州豊嶋郡江戸庄図』では写本によって江戸橋が描かれているものといないものがあり、創架年代を寛永8年(1631年)頃とする説と、次に登場する『正保年間江戸大絵図』までの間とする説がある。橋名の由来は、隣の日本橋との連想から命名されたとする説の外、都市化以前の江戸中心部が この周辺だったのではないかと推測する説がある。
橋の下は漁船や乗合の舟が集まり、南側には船宿があった他、隅田川の舟遊びのための屋形船なども停泊していた。南西側は木更津河岸と呼ばれ、江戸上総国木更津を行き来する木更津船が発着した。南詰には明暦の大火後防火のため江戸橋広小路が設けられ、賑わった。1875年に石橋に、1901年には鉄橋へ改架されている。 昭和2年 (1927年)昭和通り開通に伴い現在地に架け直された。  (wikipedia・江戸橋_(東京都)より)]

[江戸橋は日本橋の下手に架る橋で、関東大震災前の橋は現在地より50間ほど河下にあたる楓川と日本橋川の合流する角の位置にあった。昭和通りの新設に伴って、橋が上手に移る結果となったのである。今日よりずっと芝居町の葺屋町や堺町に近かったから、関西下りの役者衆は「舟乗込」といって、江戸橋橋際から舟を上がる慣わしになっていて、芝居関係者は橋際の仮小屋で、到着する役者衆を賑々しく出迎えたものだった。それに、日本橋川右岸には木更津河岸があったので、千葉銚子方面に往来する旅人の数も繁く、ほど近い四日市広小路はいつも盛り場のように賑っていた。  (「中央区立図書館 – 10.中央区名所名物句集二 安藤菊二輯(PDFファイル:982.52 KB)」より)]

四日市
[日本橋は魚河岸だが、江戸橋は草物、野菜、乾魚の市、四日市だった。毎月4日に市を立て繁昌した。明暦の大火後、防火のため封疆蔵(どてぐら)が築造された。下から石で畳み揚げ、上に屋根を覆っていたという。上総国への木更津船は、江戸橋土手倉脇より毎夕発船し、荷客を運送する、大形五大力船だった。  (「98. 名所江戸百景29 日本橋江戸ばし: 時空を超えて~歴史と地図 」より)]

才蔵市
[お江戸のまん中でも人市が開かれた。12月28日の夜、日本橋の四日市町(江戸橋の近く)に立った才蔵市がそれである。江戸の正月には、三河万歳がおもしろおかしく市中を回った。当初は三河愛知県)から、太夫、才蔵のコンビで江戸に出てきたらしい。しかし経費がかさむため、太夫ひとりが出てきて、才蔵は江戸で見つける慣習になったようである。
 その日、江戸近郷から集まった応募者を太夫がテストして契約を結ぶ。才蔵の賃金は芸のうまさで決まり、毎年100人前後が雇われた。
“三河から江戸橋へ来て供を買い”
“塩引の中で鼓の市も立ち”
この一帯では、ふだんから野菜や乾魚の市が立ち、歳末には正月用品として塩引の鮭なども売られていたのである。
この才蔵市は、仁太夫(※新四郎?)という非人頭(ひにんがしら)がとりしきり、賃金の1割をあっ旋料として徴収した。雇用期間中に才蔵に不都合なことがあれば、仁太夫がその損害を賠償したという。  (「第1章 | 職業安定行政史 | 一般財団法人 日本職業協会」より)]

東京都立図書館アーカイブ – 文久再鐫八町堀霊岸島日本橋南之絵図(文久3[1863]再刻)」(絵図四つ切右上・日本橋と江戸橋の間左方向に青物市場、元四日市丁が描かれています。)

「国立国会図書館デジタルコレクション」 – 「呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図

江戸方角安見図鑑. 乾,坤巻」・「ru11_01312_0001_p0016.jpg」[延寳8(1680)年・江戸橋、四日市とも描かれている。]

武州豊嶋郡江戸〔庄〕図 – 国立国会図書館デジタルコレクション」[寛永年間(1624-1643)・この絵図には江戸橋は描かれていないが、四日市は描かれている。絵図上で右クリックし、拡大してご覧ください。]

名所江戸百景」・日本橋江戸ばし(日本橋から江戸橋を望む)「ファイル:100_views_edo_043.jpg

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「四日市」(2-14)、「江戸橋・四日市解説・左ページ」(2-15)、「四日市解説-2・左ページ中程まで」(2-17)
四日市(拡大図)

狂歌江都名所図会 – 江戸橋(拡大図)

日本山海名物図会」(巻の二 – 16ページ・江戸四日市ノ蜜柑市)

絵本江戸土産 – 江戸橋 小網町(拡大図)

カメラ西南西方向が日本橋郵便局で明治初期の四日市町で、この地に江戸幕府魚類御用屋敷があった。カメラ位置が旧江戸橋(現在の江戸橋の100mほど下流)の南詰めになります。(「日本橋郵便局 | 中央区 今昔物語 | 地域密着型新聞らいふ」より)]

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