神保小路

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神保小路(貧乏小路)
[「八丁堀の七不思議」について、元八丁堀与力佐久間長敬の「嘉永日記抄」に下記の通り載っている。
『第六に「百文あれば一日快楽のできる土地」これは、彼の貧乏小路に住める者の言なり。渡し舟渡るを舟遊びといい、入湯・髭剃り・めし・さけ・其余たかが最下等の快楽也。
第七に「一文なしで世帯が持てる土地」これは彼脊割長屋に入ると、敷金も道具もいらず、一日稼ぎて幾らか手に入れば、一膳飯屋で腹をふさぐる、飲みたき者は酒屋の店先で枡を冠る也。ちょっと塩舐て、したみの五合に虫をおちつくる。折ふしに火事があれば出役の同心の後追って其場に駆つく。布団一枚くらいとるは見逃し也。八丁堀同心の長屋に住みて、多少其顔を見知られしを、彼らは私かに得意せしと也。』
そして、「貧乏小路」については、まことに貧民窟なりと記してある。
 この横町に住む同心のうち、自分の拝領屋敷内に脊割長屋を作る者があり、軒並み脊割長屋のスラム街ができてしまった。脊割長屋はこけら葺の平屋で、間口は九尺、奥行二間、表は雨戸弐枚、踏込は土間で、部屋は三畳一間、裏は三尺のあげ板敷、雨戸一枚建つばかり、安普請だが、日掛五十文ずつであった。
 路地は三尺隔てて、幾棟も建込んでいたから、貧乏長屋の称があったのである。
 ここの住むのはその日稼ぎの者で、男女ともに与力同心の家に出入りするかあるいは与力の下男などに懇意のものが多かった。それゆえ、沢庵・漬菜の類を貰ったり、来客の食刺しもののごときも、持って来てもらえた。
 そのかわり、中間小者の衣類の洗濯などは、この連中が引受けていたので貧民窟といっても、場末のそれに比べるとずいぶん気安いところであったとある。
 家に女中の七・八人もおき、両刀を帯びして、着流しの雪駄ばき、一目でそれと見てとれる、八丁堀の旦那衆の住む町のすぐ近くに、こうした吹溜りの人生があったことを、与力は八丁堀の七不思議の中に数えていたのである。  (「郷土室だより(八丁堀襍記)-アーカイブス中央区立図書館43.八町堀襍記三 安藤菊二(PDFファイル:1069 KB)」より)]

資料リンク
東京都都立図書館 – 文久新鐫八町堀細見絵図」(絵図左方向に「細川越中守」左下に、「シンポコウジ(神保小路)」が描かれています。)

この付近に神保小路があったようです。

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