茅場河岸、大番屋

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茅場河岸、大番屋
[大番屋は、江戸市中の自身番屋に拘留されている「縄付き」を連れてきて、町奉行同心が予審調書を作成する場所でした。現在でいえば大番屋は、警察の仕事としての「書類送検」、それを受けた検察の仕事としての、起訴するかしないかを「縄付き」を目の前に引きすえて決定する簡易検察庁兼裁判所の役割をした事務所だったようです。このうち現存する「江戸切絵図」で確認できるものは、材木町三丁目四丁目の俗にいう三四の番屋(現在の中央警察署庁舎のすぐ南)と、茅場町の大番屋(現在の鎧橋のの南詰辺)だけです。こうした大番屋の集中した理由は、八町堀地区が町奉行所の与力・同心の集住地区だったことと、「縄付き」を正式に容疑者として裁判にかける前に、事件の当事者間でできるだけ「内済」させるために、与力・同心がいわば私的な調整役として、取調べをする場所だったためです。なぜこのような「内済」が必要だったかというと、江戸時代は厳しい連座制ですから、一人の犯罪者が確立すると、思いがけないほど広範囲の多人数の人々が連座して、新しく「縄付き」が出たり、その結果としてコミュニティが壊滅することを防ぐためでもあります。  (「東京都中央区立図書館 – 郷土室だより – 中央区の”みち”(その4)」より)]

江戸幕府の連座制は『東京都中央区立図書館 – 郷土室だより – 中央区の”みち”(その2) – 連座制のチェーン』をご覧ください。

大番屋の獄屋の様子は『東京都中央区立図書館 – 郷土室だより – 中央区の”みち”(その7)』をご覧ください。

犯罪の”いちば”、与力・同心の役徳は「東京都中央区立京橋図書館 – 郷土室だより – 81.中央区の”みち”(その5)(PDFファイル:1599.81 KB)」をご覧ください。

[日本橋川上流の鎧橋(鎧の渡し)から下流の霊岸橋までの川岸を茅場河岸と呼び、下り酒の酒造問屋、酒蔵が並んでいた。近くには千川屋敷の里俗地もあった。このあたりは南茅場町と呼ばれ、古くは茅職人がいて町名の由来となったともいうが、江戸時代末期ごろには傘がつくられ付近の門前市で売られたようだ。『江戸名所図会』「永田馬場山王御旅所・茅場町薬師堂」の画中に、「此辺傘屋多し」とあり何軒かの傘屋が描かれている。幕末期の八丁堀細見絵図には組屋敷に近かったためだろうか「大番屋」も見受けられる。  (「八丁堀周辺 歴史案内〈茅場町・兜町〉 – nifty」より)]

[いつの時代でも、捜査する側としては、容疑者の身柄を拘束しておきたいという要望があります。それは逃亡や証拠隠滅の防止のためです。そのための施設として『仮牢(かりろう)』が設けられました。これは、現在では警察署内の留置場に相当するでしょうか。当初は、江戸市中の各町内にあった『自身番屋(じしんばんや)』が利用されました。しかし、『自身番屋』は、江戸の市政の末端機関として設置された施設です。建物そのものが狭く、専任の番人もいません。そのため、町奉行所の与力同心の『官舎』が建ち並ぶ八丁掘(はっちょうぼり)の北側、現在の茅場町(かやばちょう)に『仮牢』専門の施設が置かれました。その後、施設、管理組織、人員が充実していき、やがて『大番屋(おおばんや)』と呼ばれるようになりました。この『大番屋』を利用するのは、町奉行所の同心、手先という、公務員、準公務員ですが、運営そのもの『民営』でした。『大番屋』は有力な商人が拠出した資金で運営されていました。重要な容疑者は、まず『大番屋』に収容して、そこで同心、手先が取り調べを行いました。『大番屋』の仮牢へ収容する場合は、伝馬町牢屋敷ほど手続きは面倒ではありません。『大番屋』の責任者である元締(もとじめ)が了承すればよかったのです。  (「第488話 番屋づくし(華のお江戸の警察官その7) [歴史好きの素人が …」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図」(絵図右中央付近に表・裏茅場丁が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図」(絵図下中央に南茅場町が描かれています。)

資料リンク
東京都都立図書館 – 文久新鐫八町堀細見絵図」(絵図右端に「南茅場町表ト云」と記述され、その右に「大番屋」が描かれています。)

「江戸名所図会」(画像は国立国会図書館ウェブサイトより取得)・山王祭・其二山王祭・其三(絵は鎧の渡しの東側、行徳河岸の箱崎川に架かる箱崎橋から南茅場町方向を描いたものです。其二に箱崎川に架かる箱崎橋と左上に日枝山王旅所が描かれている。また、其三で日本橋川に架かる涙橋と越前堀(亀島川)に架かる霊岸橋が描かれている。)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「山王祭・其二」(2-21)、「山王祭・其三」(2-22)

カメラ北東方向が大番屋があった付近で、この付近の日本橋川右岸が茅場河岸と呼ばれていた。

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