茅場河岸、大番屋

マーカーはカメラ位置です。

茅場河岸、大番屋
[大番屋(おおばんや)は、江戸の町中に設置された、被疑者を拘留するための設備。調番屋(しらべばんや)とも。
概要
江戸の町々にあった自身番屋のうち留置場の設備がある大きい建物で、設置されたのはおそらく天保期から化政期ころで、当初は 2 、3 ヵ所、幕末までに 6 から 8 ヵ所あったとされる。大番屋は容疑者の取り調べを担当する吟味方与力が出張りやすいよう、町奉行所近くにあった。茅場町佐久間町八丁堀、材木町 3 ・ 4 丁目にあった通称「三四の番屋」などが知られているが、他の大番屋がどこにあるかは記録は残されていない。
大番屋が設置されたのは、伝馬町牢屋敷の頻発する火災とその修復、それに伴う囚人の脱獄や過剰拘禁などの問題の解決のためというのが 1 つ。もう 1 つは、幕府が寛延 3 年( 1750 年)に 6 ヵ月以上在牢している者があれば、毎月 1 日に町奉行所に報告するよう牢屋奉行・石出帯刀に命じ、宝暦 11 年( 1761 年) 4 月と嘉永 4 年( 1851 年) 2 月にも同様の令を出して、牢屋敷の在牢者削減を促していたことから、審理のスピード化と在牢期間の短縮が目的だったとされる。
留置場としての機能
江戸の町において、被疑者の取り調べは、最初は町奉行所の定町廻りや臨時廻りといった、三廻の同心によって行われた。呼び出した場合はその者の住む町の自身番で、不審者として拘束した場合は最寄りの自身番へ連行し、そこで一応の取り調べをし、町内預けにする・放免する・牢屋送りにするといった対処を決める。本格的な取り調べが必要と判断された時に、被疑者を送致する施設が、大番屋である。大番屋を使用するのは、被疑者の関わり合いのある者や参考人を呼んだりするには自身番屋では狭いためという事情もあった。大番屋へは、同心付きの小者が縄をとり、被疑者が住む町の町役人を付き添わせて連行した。
大番屋で取り調べて、罪科に間違いないとなれば牢屋敷送りとなるが、そのためには「入牢証文」という牢屋敷に収監するための書類を発行する必要がある。この書類の発行には時間がかかるため、それまで被疑者は大番屋に拘留される。証文が作成されてから被疑者は、町役人付き添いで小者に縄をとられて、大番屋から牢屋敷に送り込まれた。  (wikipedia・大番屋より)]

[大番屋は、江戸市中の自身番屋に拘留されている「縄付き」を連れてきて、町奉行同心が予審調書を作成する場所でした。現在でいえば大番屋は、警察の仕事としての「書類送検」、それを受けた検察の仕事としての、起訴するかしないかを「縄付き」を目の前に引きすえて決定する簡易検察庁兼裁判所の役割をした事務所だったようです。このうち現存する「江戸切絵図」で確認できるものは、材木町三丁目四丁目の俗にいう三四の番屋(現在の中央警察署庁舎のすぐ南)と、茅場町の大番屋(現在の鎧橋のの南詰辺)だけです。こうした大番屋の集中した理由は、八町堀地区が町奉行所の与力・同心の集住地区だったことと、「縄付き」を正式に容疑者として裁判にかける前に、事件の当事者間でできるだけ「内済」させるために、与力・同心がいわば私的な調整役として、取調べをする場所だったためです。なぜこのような「内済」が必要だったかというと、江戸時代は厳しい連座制ですから、一人の犯罪者が確立すると、思いがけないほど広範囲の多人数の人々が連座して、新しく「縄付き」が出たり、その結果としてコミュニティが壊滅することを防ぐためでもあります。  (「東京都中央区立図書館 – 郷土室だより – 中央区の”みち”(その4)」より)]

江戸幕府の連座制は『東京都中央区立図書館 – 郷土室だより – 中央区の”みち”(その2) – 連座制のチェーン』をご覧ください。

大番屋の獄屋の様子は『東京都中央区立図書館 – 郷土室だより – 中央区の”みち”(その7)』をご覧ください。

犯罪の”いちば”、与力・同心の役徳は「東京都中央区立京橋図書館 – 郷土室だより – 81.中央区の”みち”(その5)(PDFファイル:1599.81 KB)」をご覧ください。

[日本橋川上流の鎧橋(鎧の渡し)から下流の霊岸橋までの川岸を茅場河岸と呼び、下り酒の酒造問屋、酒蔵が並んでいた。近くには千川屋敷の里俗地もあった。このあたりは南茅場町と呼ばれ、古くは茅職人がいて町名の由来となったともいうが、江戸時代末期ごろには傘がつくられ付近の門前市で売られたようだ。『江戸名所図会』「永田馬場山王御旅所・茅場町薬師堂」の画中に、「此辺傘屋多し」とあり何軒かの傘屋が描かれている。幕末期の八丁堀細見絵図には組屋敷に近かったためだろうか「大番屋」も見受けられる。  (「八丁堀周辺 歴史案内〈茅場町・兜町〉 – nifty」より)]

東京都立図書館アーカイブ – 文久再鐫八町堀霊岸島日本橋南之絵図(文久3[1863]再刻)」(絵図中央右端・表南茅場町右に大番屋が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図」(絵図下中央に南茅場町が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 八町堀細見繪圖(文久2 [1862])」(絵図右端に「南茅場町表ト云」と記述され、その右に「大番屋」が描かれています。)

カメラ北東方向が大番屋があった付近で、この付近の日本橋川右岸が茅場河岸と呼ばれていた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*