越前堀跡・霊巌島説明版(越前掘公園)

マーカーは越前掘公園です。

越前堀跡説明版
[所在地 中央区新川一丁目・二丁目
江戸時代、この辺りは越前福井藩主、松平越前守の屋敷地でした。屋敷は三方が入り堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていました。越前堀の護岸は石積みで、今でも建築工事昼夜遺跡の調査中に、越前堀のものと見られる石垣石が出土することがあります。堀の幅は12~15間(20~30mほど)もあり、運河として用いられ、荷を積んだ小舟が通っていたようです。
明治になり、越前守の屋敷地が「越前堀」という町名になりましたが、堀は次第に埋め立てられていきます。大正12年(1923)の関東大震災以後、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられました。その後、町名が改められ「新川」となって現在に至っています。今では往時をしのぶ「越前堀」の名は、ここの越前堀公園に見られるのみとなりました。  (「八丁堀周辺 歴史案内〈新川〉 」より)]

[「出土した越前堀の石垣石」 平成20年3月、中央区教育委員会設置の説明板
ここに展示した石は、「石垣石」と呼ばれる越前堀の護岸に用いられたものです。平成18年(2006)、新川二丁目で行われた遺跡の発掘調査で見つかりました。その一部をゆかりある当(越前堀)公園内の堀跡付近に移設しました。江戸時代、この辺りは越前国福井藩主松平越前守の屋敷地でした。屋敷は三方が堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていました。越前堀の護岸は石積で、今でも土木工事や遺跡の調査中に出土することがあります。堀の幅は12~15間(20~30mほど)もあり、運河としても利用され、荷を積んだ小舟が通っていたようです。明治になり、屋敷の跡地が「越前堀」という町名となりましたが、堀は次第に埋め立てられていきます。大正12年(1923)の関東大震災以降、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられました。その後、町名が改められ「新川」となって現在に至ります。今では往時をしのぶ「越前堀」の名は、この区立越前堀児童公園に見られるのみとなりました。なお、この公園は関東大震災後につくられた「帝都復興小公園」の一つである「越前堀公園」から始まっています。  (「八丁堀周辺 歴史案内〈新川〉 」より)]

[霊巌島の由来
当地区は、今から370、80年前、江戸の城下町が開拓される頃は、一面の沼地葭原であった。寛永元年(1624)に、雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建して、土地開発の第一歩を踏みだし、同11年(1635)には、寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が、二万七千余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。邸の北、西、南三面に船入堀が掘られて後に越前堀の地名の起る原因となった。明暦三年(一六五七)の江戸の大火で、霊巌寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町町が、替地として集団的に移ってきた。明治大正年間には富島町、浜町、四日市町、塩町、大川端町、川ロ町、長崎町、霊岸島町、銀町、東港町、新船松町、越前堀、南新堀の十三町に分れ、多額納税者も多数居住して検潮観測所もあり、湾内海運の発着地、倉庫地帯として下町商業の中心であった。大正の大震災により全部焦土と化し、昭和6年7月区画整理によって、ゆかり深い町名も新川一、二丁目・霊岸島一、二丁目・越前堀一、二、三丁目と改称され、更に昭和46年住居表示制度の実施により新川一、ニ丁目となった。江戸時代からの歴史を象徴する懐かしい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。昭和52年3月 霊巌島保存会 (「八丁堀周辺 歴史案内〈新川〉」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図

国立国会図書館デジタルコレクション – 呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図

カメラ北東方向に越前掘公園の石碑があり、その脇に越前堀跡の説明板があります。また、公園内に霊巌島の由来碑が設置されている。

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