向井将監御船手組屋敷案内板(亀島橋)

マーカーは御船手組(将監河岸)の説明板です。

御船手組(将監河岸)
[御船手組(将監河岸)――江戸初期に隅田川に至る亀島川の下流の左岸(新川側)に、幕府の御船手組屋敷が設置され、戦時には幕府の水軍とし、平時には天地丸など幕府御用船を管理した。大坂の陣水軍を率いて大坂湾を押さえた功績により、御船手頭に任ぜられた向井将監忠勝(1582-1641)をはじめ、向井家は代々将監を名乗り御船手頭を世襲したことから、亀島橋下流から隅田川に至る亀島川の左岸(新川側)を将監河岸と呼ぶようになった。また、1889年(明治22年)に東京湾汽船会社が設立され、御船手組屋敷跡に霊岸島汽船発着所が置かれ、房総半島、伊豆半島、大島、八丈島などに向けて海上航路を運営し、明治・大正・昭和期にわたり、港町の伝統を引き継いでいった。  平成14年6月 中央区土木部 ]

東京都立図書館アーカイブ – 文久再鐫八町堀霊岸島日本橋南之絵図(文久3[1863]再刻)」(絵図四つ切左下・松平越前守中屋敷上方向に亀島橋が描かれ、松平越前守中屋敷左下に御船手向井将監と描かれています。

国立国会図書館デジタルコレクション – 呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図」(絵図中央から左上に亀島橋が描かれ、その左先方向先端に御舩手組屋敷と描かれています。)

カメラ位置は亀島橋東詰で、カメラ北方向に御船手組(将監河岸)の説明板が設置されています。

向井忠勝
[向井 忠勝(むかい ただかつ、天正10年5月15日(1582年6月5日) – 寛永18年10月14日(1641年11月16日))は江戸時代前期の戦国武将旗本。左近衛将監。徳川水軍の将で御船手奉行であった向井正綱の子。妻は長谷川長綱の娘。後妻と合わせて十一男七女に恵まれた。慶長年間には既に徳川秀忠の元で、父正綱とは別に相模国上総国内に500石を拝領し、御召舟奉行として下総国葛飾郡堀江(現在の千葉県浦安市)に陣屋を置いた事が記録されている。大坂冬の陣では九鬼守隆、千賀信親、小浜光隆らと水軍の将として出陣。下福島村付近から出兵し、野田・福島の戦いでは大野治胤らの豊臣水軍と小競り合いを繰り返し、その後も木津川付近にて豊臣軍に対し終始優位に立ち、大坂湾の制海権を押さえる活躍を見せた。その功により元和3年(1617年)には3000石を与えられた。父の死後はその遺領も継ぎ、計5000石に。寛永2年(1625年)には相模、上総の両国で計6000石と、大身の旗本として封ぜられた。将軍秀忠の信頼篤く、舟を使っての移動の際には必ず忠勝を随行させたと伝わるほどである。嫡子五郎左衛門正俊は父と同じく御船手となっていたが、理由は不明だが改易された。忠勝の跡は後妻との子である五男向井正方(忠継とも)が継いだ。忠勝以降、向井家は九代に渡って左近衛将監と舟手奉行を世襲し、「向井将監」として江戸湾の警護や幕府水軍の維持に努めた。忠勝は本来の采地である相模国三浦郡三崎宝蔵山の屋敷とは別に、寛永7年(1630年)に江戸の八丁堀霊岸島に 江戸屋敷を拝領している。「将監番所」と呼ばれ、亀島川沿いの河岸は「将監河岸」なる地名で明治時代末期まで正式な地名となっていた。「『安宅丸』の絵図。幟に描かれた「む」の字は、向井の頭文字で向井将監の旗印。」・wikipedia-photo  (wikipedia-向井忠勝より)]

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