久世三四郎抱屋敷跡

マーカーは久世三四郎抱屋敷跡です。

久世三四郎抱屋敷
[寛永十三(一六三五)年、大久保百人組五代目頭久世三四郎広当は大久保大縄地内の割残地一万三千坪を、老中に申請して久世家の抱屋敷とした。それからおよそ二百三十年後、明治二年新政府に召上げられて官有地となり、百人町から外されて東大久保村に編入された。このうち東側約半分の六千五百坪は東京府の管轄になり、明治十二年八月に大久保病院として開院。この病院は伝染病流行の際のみ随時開院、同三十一年四月に土地建物は東京市の管轄になった。現在の歌舞伎町交番から北西に大久保病院・大久保公園・新宿ハローワーク周辺まで。残り西側半分六千四百九十二坪は明治十五年四月大久保小学校の敷地として払い下げられた。しかし、翌年二月、民有地として売却され、やがて百人町南町居住者の共同発起で「南町躑躅園」が設立され、繁盛した。しかし、西側が鉄道用地に買収され、鉄道線路となって敷地は縮小され、明治三十五年、東京市日比谷公園が新設される際にすべての植木が移植され、躑躅園は姿を消した。  (「公益社団法人 新宿法人会 – 新宿歴史よもやま話 第68回」より)]

[久世 広当(くぜ ひろまさ、慶長3年(1598年) – 万治3年1月24日(1660年3月5日))は江戸幕府旗本寄合久世広宣の長男。兄弟に久世勝宣、久世広之、久世重利、大久保荒之助忠当室など。通称三四郎。正室は井上正就の娘。子に久世広重、久世広賢、久世広次、娘に内藤重頼室。このほか大久保忠辰の娘を養女にしている。
父の後を継いだ広当は、寛永3年(1626年)に下総国海上郡内500石を弟広之に分与し、新田開墾により7000石余の旗本となった。
寛永7年(1630年)7月21日、備前国岡山藩家臣河合又五郎は、渡辺源太夫を殺害し、逃亡をはかる事件が発生。旗本の安藤正珍邸に逃れた。引渡しを巡り、広当と阿倍正之が仲介役となるが、同じ旗本の誼から、安藤に加担して、外様大名旗本との確執に発展してしまう。幕府の裁定により、広当、安藤、阿倍は、百日間の寛永寺へ寺入りを命ぜられた。
寛永12年(1635年)より万治3年没するまで、鉄砲組頭となる。その間は、13000坪の間口が狭く奥行きの長い広大な抱屋敷を与えられ、こちらに住んでいた。現在の新大久保駅付近の大久保病院の付近である。  (wikipedia・久世広当より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [20]拾九貞(嘉永五年・1852年)」(コマ番号5/13・絵図上中央に久世三四郎無年貢抱屋敷と描かれています。左に長光寺が描かれ、長光寺の前道は現在の職安通りで、右方向大筒角場右の道が旧青梅街道になります。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京府豊多摩郡淀橋町大久保村(出版年月日1911.9)」(コマ番号4/8・地図四つ切左上、字角筈裏の大久保病院の部分が沿革圖書に記載される久世三四郎抱屋敷で、その左線路左までが抱屋敷になっていたようです。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 大久保百人組屋敷図」(絵図左下に久世三四郎無年貢抱屋敷が描かれています。)

カメラ位置は歌舞伎町交番前で、カメラ北西方向が久世三四郎抱屋敷跡です。