二十五騎

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二十五騎
[甲州街道は徳川家康の江戸入府に際し、江戸城陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたという。そのため、短い街道であるにもかかわらず、小仏・鶴瀬に関所を設けている。これは、甲府城を有する甲府藩親藩であることと、沿道の四谷に伊賀組根来組甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組が配置されており、鉄砲兵力が将軍と共に甲府までいったん避難した後に江戸城奪還を図るためであるという。  (wikipedia・甲州街道より)]

[徳川家康は天正18年(1590)江戸に入ると、すぐに北条氏の残党が西部から侵攻することを予想して内藤清成に四谷口、青山忠成に青山口の防備に当たらせた。10年後、関が原の戦いに勝って天下の覇権を握ることになったが、有力大名たちの反撃も予想されるため特に江戸西部の防備に力を注いでいる。その一つが大久保鉄砲百人組の創設である。慶長7年(1602)内藤清成は与力二十五騎と同心100人を預けられ、組屋敷(集団住宅地)を内藤宿及び大久保に設けた。当時、未だ未開地であったので一人当たり千五百坪から二千坪という広い土地が与えられた。最初、内藤宿の与力屋敷は内藤家の屋敷内にあったが、頭が代わって次第に内藤家の手を離れ、甲州街道(新宿通り)の北側、現在の新宿1丁目にまとめられている。やがて元禄11年(1698)内藤新宿が新設されると甲州街道に面して四千坪余が召し上げられ、代地が与力9人分として角筈村(新宿6丁目)に与えられた。  (「社団法人 新宿法人会・大久保鉄砲百人組の創設」より)]

[区立花園公園・小学校一帯は、明治の東京落語界を代表した三遊亭円朝が、明治21年から28年まで住んだ場所です。屋敷地は、およそ1000平方メートル。母屋と廊下続きの別棟の離れが、『円通堂』と呼ばれた円朝の居室でした。孟宗竹の深い藪や野菜畑に囲まれ、田園風景が広がっていたといいます。円朝は周囲の喧噪を避けて、当時はまだ寂しい町だったこの地を選んだそうです。怪談噺や人情噺を得意とした円朝の代表作は、「真景累ヶ淵」「牡丹灯籠」「塩原多助」など。とくに新宿在住時は、新宿や戸塚を舞台とする「怪談乳房榎」や「名人長次」などを書き上げ、まさに円熟期にありました。花園公園内にある旧居跡の碑は、新宿区指定史跡です。  (「三遊亭円朝旧居跡 | 一般社団法人新宿観光振興協会」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 内藤新宿千駄ヶ谷絵図」(絵図右下隅の上方向・百人組の間に二十五キト云と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [14]拾九元」(コマ番号2/5・地図中央の太宗寺左側に百人組与力大縄地と描かれています。)

カメラ北方向が花園公園で、新宿一丁目全体が二十五騎と呼ばれていた。

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