宇都宮藩戸田家角筈下屋敷跡

マーカーは宇都宮藩戸田家下屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP677・コマ番号382/553から宇都宮藩屋敷の変遷について記載されています。P681・コマ番号384/553「下屋敷並抱屋敷 千駄ヶ谷」がこの地になります。

[「渋谷区立図書館-渋谷区史年表」に、『万治元年(1658)12月 – 千駄ヶ谷に宇都宮藩戸田家の拝領屋敷ができる。』と記述されています。]

[葵橋通りを進むと新宿南口・新宿1丁目交差点より代々木駅に抜ける道にあたる。T字の突き当たりの東京南新宿ビルの壁面に葵橋跡の銘板が残る。往昔、この地に葵橋が架けられていたが、ビル建設にともない撤去された。葵橋は『上水記』には戸田因幡守抱屋敷内橋、とある。この地は、宇都宮藩戸田家の屋敷があったためで、明治3年(1870)の記録にも「戸田邸中土橋」、とある。葵橋となったのは、明治に紀州徳川家が買い受け薬草栽培、紀州庭園と呼ばれた、ため。徳川家、故の葵橋ではあろう。  (「玉川上水散歩そのⅦ:代田橋から四ッ谷大木戸へ – 時空散歩」より)]

戸田忠恕
[戸田 忠恕(とだ ただゆき、ただくみ、ただひろ)は、江戸時代末期(幕末)の大名。下野国宇都宮藩第6代藩主。4代藩主戸田忠温の六男で5代藩主戸田忠明の弟。
安政3年(1856年)、兄・忠明の死で跡を継ぎ、従五位下・越前守に任官した。幼少だったために家老の間瀬和三郎(後の戸田忠至)や県勇記の補佐を受け、忠至の活躍もあって歴代天皇陵修理を建議して山陵奉行の任務に当たり、主に家老2人が中心となって京都大和河内近江各地の山陵を調査し、修理にあたった。領内では間瀬・県らの主導の下、篠井金山の開発に乗り出すが、2年で失敗に終わった。
忠恕は尊王の志に篤く、元治元年(1864年)に天狗党の乱が起きた折、筑波山に出撃した宇都宮藩兵が幕府の命令が下る前に帰陣してしまったことや、元々藩内に藩主一門の戸田光形を始めとする宇都宮天狗党なる攘夷勢力を抱えていたことなどもあり、反勢力に関しては既に処分済みではあったものの幕府の怒りを買うこととなり、再出陣を願い出たが、領国7万7000石のうち2万7000石を減じて5万石とし、忠恕は隠居謹慎の上養嗣子の忠友に家督を譲り、田原戸田家は陸奥棚倉藩に転封とする命が下されることとなった。しかし、県と岡田真吾が山稜補修で親交のあった正親町三条実愛と忠至に温情を請い、その力によってこの処分は延期、中止された。
慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の折は新政府軍に与し、大鳥圭介土方歳三ら旧幕府軍により攻められ宇都宮城は落城したが、新政府軍の加勢を得て宇都宮城を再び奪回した(宇都宮城の戦い)。忠恕は朝廷より召し出しを蒙るが、病にて果たせず同年5月、22歳で病死した。  (wikipedia・戸田忠恕より)]

東京都立図書館アーカイブ – 四ッ谷千駄谷内藤新宿辺絵図(嘉永2[1849]改)」(絵図四つ切右下に戸田山城守(戸田忠温)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 内藤新宿千駄ヶ谷絵図(文久二年・1862年)」(絵図中央右上に戸田越前守(戸田忠恕)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 9号」(コマ番号5/5・絵図右上に戸田土佐守(戸田忠友)抱屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 千駄ヶ谷其外村々諸屋敷色分図. [2]」(コマ番号10/37・宇都宮藩抱屋敷が描かれています。)

カメラ位置は葵橋跡で、カメラ南方向、代々木駅までが宇都宮藩戸田家角筈下屋敷跡になると思われます。