淀橋

マーカーは「淀橋の由来」案内板です。

淀橋
[淀橋(よどばし)は、東京都新宿区中野区の境の神田川に架かる青梅街道上の橋。
淀橋(橋の名称)はかつて姿見ずの橋、面影橋などと呼ばれていたが、「淀橋」となった理由にはさまざまな説がある。(「姿見ずの橋」は中野長者伝説から来たもので、花嫁はこの橋を渡ると行方不明になるという言い伝えがあった。)
●姿見ずの橋で休憩していた徳川家光により、川の流れが緩やかでよどんで見られたので淀橋と名づけた。
●放鷹した際に姿見ずの橋を通った徳川家光(徳川吉宗説もある)が橋の名前の由来が不吉であることを知り、風景が京都淀川に似ていたことから淀橋と改名した。
豊島郡多摩郡の境界にあり、両郡の余戸をここに移住させてできた村なので、ここに架かる橋を「余戸橋」と呼ぶようになり、さらに淀橋となった。
柏木中野角筈、本郷の4つの村(4戸)の境にあるため「四戸橋」となり、これが淀橋に変化した。
現在の淀橋・wikipedia-photo  (wikipedia・淀橋より)]

[『江戸名所図会』の挿絵を見ると、青梅街道おうめかいどうを往来する武家や町人が克明に描かれ、神田川に架けられた大きな橋、さらに神田川の助水堀として玉川上水から引かれた水流があって小さな橋が架かっている。
 よく見ると、手前にもう一本細い流れがあり、草葺き屋根の屋内で大きな水車が回っている。この小流は農業用に神田川から引かれた用水路で、ふだんは付近の人たちが水車を動力に米や麦を挽いていたという。これが、現在も淀橋の橋柱にシンボルマークとして刻まれている淀橋名物の水車なのである。
 幕末の江戸はアメリカのマシュー・ペリー提督が率いる黒船来航で騒然とするが、あわてた江戸幕府は、こんな淀橋の水車にまで海岸防備の火薬作りを命じている。危険極まりない作業で、不幸にも安政元年(1854)6月、作業員の手違いから火薬の大爆発という事故が発生した。
 作業員の一人が死亡しており、付近の民家もまばらな時代だったのに、50人あまりのけが人が出た。『武江年表ぶこうねんぴょう 』には、爆発音が近辺に鳴り響いたと記録されているから、江戸の重大ニュースだったことは間違いない。  (「大成建設 | ライブラリー – 江戸の事件 淀橋水車の 大爆発事故」より)]

なかの物語 其の四 中野長者伝説を御存じですか? | 中野区公式ホームページ」、「【中野の歴史7-1】 飛んできた臼-淀橋水車爆発事件 | 中野の歴史 | まち …」、「公益社団法人 新宿法人会 – 新宿歴史よもやま話 第7回

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [20]拾九貞」(コマ番号8・切絵図右中央上方向に淀橋が描かれ、淀橋の上方向に玉川上水からの神田上水への助水堀、淀橋の下方向に用水路が描かれています。この用水路に水車が設置されていました。)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「淀橋水車」(11-17)、「淀橋解説・左ページ4行目から」(11-18)

カメラ位置は淀橋東詰で北北西方向に「淀橋の由来」案内板が設置されています。

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