玉川上水(池尻橋)跡

マーカーは玉川上水(池尻橋)跡です。

玉川上水(池尻橋)跡
[穏田川は玉川上水の余剰水を受けていたために豊富な水量を誇り、往時には、よく知られた「穏田の水車」をはじめ、いくつもの水車掛けが見られたという。
穏田川(渋谷川)の地形上の源頭は新宿御苑内にあり、苑内でさらに2つに分岐する形になっている。
1.苑内東部の玉藻池
ただし池自体の湧水はわずかしかなかったらしい。そのかわり、池からさらに200mばかり北の地点に玉川上水の水番屋があり、人工の水路を通じてここから大量の水が来ていた。水番屋では市中配水量の調整を行っていて、余った水は全てこちらへ排水していたためである。
2.苑内南部〜西部の谷筋(“千駄ヶ谷”)
現在は庭園の一部となっている「下の池」「中の池」「上の池」の順に北西へ遡り、さらに北の「母と子の森」と呼ばれるエリアから苑外の新宿高校、天龍寺にかけてのあたりに湧水源があったとされる。古地図を見ると、天龍寺の境内には池があったことがわかる。
ふたつの源流は南東側へと流れ出て、千駄ヶ谷駅の東・外苑橋のあたりで合流していた。  (wikipedia・穏田川より)]

[伝 沖田総司逝去の地
 この場所には、高遠藩主内藤家屋敷(現新宿御苑)に沿って流れる旧玉川上水の余水吐(渋谷川と呼ばれる)に池尻橋がかかっていました。
 多くの歴史小説や映画などで、新撰組隊士沖田総司(1844~1868)が晩年に療養し、亡くなったとされる植木屋平五郎(柴田平五郎)の屋敷はこのあたりにありました。
      平成26年3月    新宿区  (「沖田総司逝去の地・植木屋平五郎屋敷 (池尻橋 / 東京都新宿」より)]

鉛筆の碑(場所 – 多武峯内藤神社内の児童公園)
[明治20年(1887年)、創業者の眞崎仁六は現在の新宿区内藤町に、水車を動力とした鉛筆工場を建て、鉛筆工業生産を開始しました。それが三菱鉛筆株式会社の前身である「眞崎鉛筆製造所」です。
 2006年10月、創業120年を記念し、創業の地である新宿区内藤町に『鉛筆の碑』を建立し、新宿区に寄贈しました。日本国内での鉛筆の飛躍的な普及の礎、そして100年以上にわたって愛されている鉛筆の歴史は、この場所から誕生したのです。  (「三菱鉛筆のあゆみ|企業情報」より)]

国立国会図書館デジタルライブラリー – 〔江戸切絵図〕. 内藤新宿千駄ヶ谷絵図」(絵図下・内藤駿河守下屋敷下に玉川上水が描かれ、その先で放流先として穏田川が描かれています。絵図中央下・玉川上水に架けられた橋が池尻橋で橋上方向に水車、植木屋と記述されています。また、穏田川の源流が天龍寺地内と描かれています。因みに、新宿御苑のなかには新宿区と渋谷区の境界があり、境界は過去の穏田川の流れを示しています。)

沖田総司逝去の地 – Google Map 画像リンク

カメラ西南西方向・大京町交番左に池尻橋の高欄がモニュメントとして残されています。また、カメラ南方向・樹木のあたりにも残されています。

カメラ西方向、フェンスそばに「伝 沖田総司逝去の地」の案内板があります。

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