角筈調練場跡

マーカーは角筈調練場跡です。

角筈調練場跡
[新宿大ガード付近、西武新宿駅方向にかけて「調練場」があった。天保十四年(一八四三)六月、幕府は近海に出没する外国船に危機感を抱き、泥縄式に「大筒丁場」を角筈村に設け、武家であれば誰でも大筒の練習を許した。大筒といっても玉は三百目までである。やがて「角筈調練場」と改称され、ドカン、ドカンと練習する武家で賑わい、たびたび修理や湯小屋増設の願いが出されている。掃除や湯茶の用意は近隣農民の夫役(ぶえき)である。敷地は一万七千坪、旗本五島修理亮と城半左衛門の屋敷を召上げた場所であった。
 新宿通りは駅のところで線路沿いに右折しているが、それを直進する西口への連絡地下道の所がかつての青梅街道であった。明治十八年三月、日本鉄道(山手線)が赤羽~品川間に開通 すると、青梅街道に踏切りが出来、列車本数の増加に伴い閉じられる時間が長くなって、通行人や馬車は激しい渋滞に悩まされた。明治四十一年、やっと跨線橋が設けられたが、馬車の待ち時間は依然として減らないままであった。
 大正十年、踏切りの西百メートルに大ガードが作られて渋滞はようやく解決された。換言すれば、直線であった青梅街道は鉄道が敷設されたために、西に迂回するようになり、跡に連絡地下道が設けられたのである。回りくどく青梅街道の変遷を述べたが、実は前項の「調練場」が青梅街道に接した西側、すなわち、連絡地下道の所から西側にあったことを言いたかったのである。  (「角筈村の大筒調練場 – 新宿法人会」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 内藤新宿千駄ヶ谷絵図(文久二年・1862年)」(絵図右上・常圓寺と西方寺(現新宿三丁目23番・新宿駅北側附近、大正9年杉並区梅里1丁目4番56号へ移転)の間に「角筈調練場」と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [19]拾九貞(嘉永五年・1852年)」[コマ番号37/137・寛保三(1743)年之形右ページで城主水と描かれています。コマ番号38/137・天保十四(1843)年之形で右ページに大筒角場、右上に城半左衛門と記述されています。コマ番号39/137・当時之形右ページに大筒角場、その左上に西方寺が描かれ、その上の道が旧青梅街道です。また、左下に全龍寺が描かれ、その前の道が現区役所通りです。全龍寺の敷地はここまであった。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [20]拾九貞(嘉永五年・1852年)」(コマ番号2/13・絵図下全龍寺の右、西方寺の下に大筒角場と記述されています。5/13・絵図右上に大筒角場が描かれています。)

東京府豊多摩郡淀橋町 大久保町|公益財団法人特別区協議会

カメラ位置は新宿ステーションスクエア西北角で、カメラ南南西方向に旧青梅街道の標識があります。カメラ北西方向に「角筈調練場」があり、カメラ北方向に西方寺がありました。