銀世界(梅屋敷)

マーカーは新宿パークタワーです。

銀世界(梅屋敷)
[西新宿三丁目の新宿パークタワー(五二階)は、東側を高速四号新宿線の新宿出入り口、西側を十二社通り、南側を甲州街道、北側を新宿中央公園に囲まれ、新宿超高層ビル群中の西南に位置しています。
 ところが、かってここは「銀世界」と名付けられた梅の名所でした。風流人たちが楽しむ梅園と超モダンな高層ビルとでは余りにかけ離れたイメージですので、変化の様子をたどってみましょう。
 江戸時代、園内は広く梅が林をなし、将軍御目留の梅、御腰掛の松などといわれる奇株もあったとのこと。維新前、日本橋本町御影堂の所有となると、屋敷守が手作りした土産の「梅漬」を売り、筵を用意してやって来る客たちに貸席を設けると各自日当たりのよい梅下に腰を下ろし、白梅をめでながら瓢酒を斟み、仲間同志歓談。市内から日帰りで清遊するのに適当な距離でした。
 明治になると、船越男爵二条公爵など持主が変り、俗に新町の梅屋敷ともいわれました。三〇年代になると東側に浄水場が作られ、敷地の北端部の小丘は新設水道に沈み、入口正面に琉球人棟応昌が書いた「銀世界」の三字碑が建てられました。小説家田山花袋は青年時代、現在ワシントンホテルから都庁にかけてあった旧館林藩角筈抱屋敷の屋敷守をしていた義兄を頻繁に訪れ、浄水場が建設される過程や、近隣の様子を具に見聞し、作品『時は過ぎ行く』に書いています。
「梅が白く垣根に咲く時分には、近くにある名高い郊外の梅園に大勢東京から人が尋ねて来た。瓢箪などを持って来て、日当たりの好い芝生で、酒を酌んだりなどする人達もあった。梅の多い奥の邸に間違えて入って来て、「や、ここは銀世界じゃないのか。それでも梅が沢山あるじゃないか」など言って、門の中から引き返して行くものなどもあった。」
 明治四四年、東京ガス株式会社淀橋供給所の所有となり、梅樹は芝公園に移され、同時に「銀世界」の石碑も移りました。  (「公益社団法人 新宿法人会 – 新宿歴史よもやま話 第36回」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 内藤新宿千駄ヶ谷絵図」(絵図右上・十二社左下方向に梅屋敷が描かれています。)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「桃園春興」(11-27)、「桃園解説」(11-26)
桃園春興(拡大図)

カメラ南方向が銀世界(梅屋敷)があった新宿パークタワーです。

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