館林藩秋元家抱屋敷跡(淀橋浄水場跡、東京都庁)

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マーカーは東京都庁です。

館林藩秋元家抱屋敷跡(淀橋浄水場跡、東京都庁)
[都庁周辺は驚異的な変貌をとげている。現在のように高層ビル群が建ち並ぶようになるとは、誰も予想しえなかったであろう。ところで、都庁の敷地は江戸時代館林藩秋元家の角筈抱屋敷であった。そこで、その変遷を振り返ってみよう。
 作家田山花袋は『時は過ぎ行く』のなかで、ちょうど、江戸時代の武家屋敷跡から明治の文明開化を象徴するような浄水場に様変わりする明治三十年前後までの様子を書いている。
  彼は家族とともに内藤町に住み、古文書を筆写する内職のために角筈村の旧秋元家屋敷に通っていた。かつて秋元家は館林六万石、花袋の家は代々下級武士として仕えていた。屋敷は二万坪余、甲州街道に面して表門、北にしゃもじを立てたように広がっていた。当時、元家老であった岡谷繁実の所有になり、彼の叔父が管理を任されていた。築山や泉水、立派な御殿のあった屋敷も、明治初年には住む人もないままに垣根は壊れ、草薮になって容易に入って行けないほど繁っていた。それが少しずつ手入れされて梅の若木が植えられ、茶畑も作られ、茶摘みには多くの娘たちで賑わった。やがて製茶やビール製造にまで手を拡げるが、いずれも失敗している。
 明治二十一年、伝染病の蔓延に悩まされた東京市は水道整備を計画、審議を重ねて浄水場を初め千駄ヶ谷に予定したが、淀橋に変更、二十五年から用地の買収に着手した。旧秋元家屋敷も甲州街道に面した南部をわずかに残して買収され、買い上げ価格は坪当たり一円六銭五厘(宅地)、七十一銭五厘(畑)であった。淀橋の工事着工は明治二十六年十月、全工事の完成をみたのは三十二年暮れであった。
 この間、公債発行の遅延、工事中止の世論、用地買収の難航、水道鉄管納入事件(日本鋳鉄疑獄)などがあり、特に水道鉄管では外国製を主張する渋沢栄一への凶徒襲撃事件、国産の鋳鉄会社の納入遅延や不良品の不正納入などが発生し、ついに大部分の鉄管は外国製品を輸入、使用するに至っている。現在、国産の鉄管が世界市場を席巻しているのと比べて夢のような話である。
 戦後、地元新宿では新宿周辺の整備が次第に進み、ついで淀橋浄水場の移転について都議会への請願がなされていた。新宿副都心建設計画が正式に検討され始めた のは昭和三十五年四月、協議会の会長は当時副知事であった鈴木俊一。翌年三月、新宿副都心公社が設立され、四十年三月に浄水場が東村山に移転、翌年に西口広場完成、平成三年には都庁の移転が行なわれた。  (「公益社団法人 新宿法人会 – 新宿歴史よもやま話 第1回」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 内藤新宿千駄ヶ谷絵図」(絵図右上・十二社左下方向に梅屋敷下に秋元但馬守下屋敷が描かれています。)

カメラ東北東方向右が東京都第一本庁舎、左が第二本庁舎です。

カメラ位置は新宿エルタワー駐車場入口前で、カメラ東北東方向に淀橋浄水場跡(淀橋浄水場の「正門跡」)の碑があります。(Google Maps)

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