鯖江藩間部家角筈下屋敷跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP834・コマ番号461/553の鯖江藩上屋敷の変遷について記載されています。P840・コマ番号464/553「下屋敷 四谷角筈」がこの地になります。

[間部下総守の角筈下屋敷は現在の京王デパート西側の道路を挟み、幅約六十メートル、甲州街道側に門を構え、南北約二百六十メートル、細長いやや「く」の字型に曲がった屋敷でした。

新宿駅西口の京王デパート西側は鯖江藩(現在の福井県鯖江市間部家の下屋敷であった。能役者喜多七太夫の弟子であった間部詮房は、能楽の好きな甲府藩主綱豊(三代将軍家光の三男綱重の子)に見いだされ、やがて綱豊が六代将軍家宣となるに及んで異例の抜擢により側用人に進み、権勢を振い、高崎城主五万石に進んだ。そして、新井白石と一体となって「正徳の治」と呼ばれる文治政策を行っている。新宿区に関係深い関孝和も甲府藩に仕えて後に短いながらも幕臣になっている。同様に甲府藩から新たに幕臣に移籍した人達がほど近い天竜寺周辺に屋敷を拝領した記録も残されている。やがて、八代将軍に吉宗がなると間部詮房は退けられ、越後村上に転封されて病没。弟詮言が家を継ぐが、当時寒村であった越前鯖江に再転封されて鯖江藩が成立。藩は慢性的な財政難に苦しむことになった。延享三年(一七四六)五月、三代藩主詮方の時、元矢之倉(現中央区浜町一丁目)の鯖江藩下屋敷三千三百七十坪余を時の老中西尾隠岐守(西尾忠尚)に譲り、相対替によって隠岐守の四谷角筈にあった下屋敷四千二百坪に移り、幕末に及んでいる。この間、行動派の鯖江藩七代藩主詮勝寺社奉行、西丸老中を務めたが天保改革水野忠邦と対立して辞任。
 この頃、下屋敷の甲州街道に面した東部分は貸されていたらしく、預り人平川文蔵方の同居人樋口鎌右衛門(文蔵の養父、本丸石之間同心)は日頃酒癖が悪く、留守中にたまたま西隣屋敷(旗本水谷弥之助、二千二百石)の地守吉五郎がやって来て妻きわと親しく話込んでいるのを見付け、かっとして妻を殺害、本人も麻上下に身形を改めて切腹。内臓が出た状態で苦しんでいるのを文蔵が発見、大騒ぎになる事件が発生した。(『藤岡屋日記』)
 ところで、詮勝は安政五(一八五八)年井伊大老の下で再び老中に復帰、財務・外交を担当。日米修好通商条約の調印や朝廷対策のため安政の大獄の推進役であった。しかし翌年、井伊と対立して免職、やがて一万石を減封されて四万石となり、隠居・謹慎を申し渡されている。家督を継いだ詮実はなかなかの教養人として随筆集『待月日記』八十一冊を残している。鯖江市の資料館「まなべの館」によると、この中では角筈下屋敷については殆ど触れられていないとのことである。屋敷に手間を掛けるほどの余裕はなかったのであろうか? そして藩主就任一年後に三十七歳の若さで死去し、十一歳の少年、弟詮道が跡を継ぎ、動乱の幕末を迎えている。  (「新宿歴史よもやま話 第73回 – 公益社団法人 新宿法人会」、「新宿歴史よもやま話 第74回 – 公益社団法人 新宿法人会」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP834・コマ番号461/553から鯖江藩上屋敷の変遷について記載されています。そのP840・コマ番号464/553の「下屋敷 四谷角筈」がこの地になります。そこに下記の通り記述されています。
『一、下屋敷 四谷角筈
  相対替延享三年十一月廿一日 坪数四千弐百坪
   寛政呈譜、延享三年十一月廿一日元矢之倉屋敷四谷角筈西尾隠岐守屋敷ト相対替願之通被仰付。
   相対替屋敷書抜、延享三年十一月廿一日元矢之倉間部若狭守下屋敷三千三百七拾坪余西尾隠岐守え、隠岐守下屋敷四谷角筈四千弐百坪間部若狭守え』

国立国会図書館デジタルコレクション – 市ヶ谷四谷青山代々木辺迄 : 寛保延享(1741年-1748年)ノ頃」(コマ番号5/6・絵図四つ切右下、多門院上方向、抱屋敷右に西尾隠岐守(西尾忠尚)と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 内藤新宿千駄ヶ谷絵図(文久二年・1862年)」(絵図四つ切右上・延壽庵上に間部下総守(間部詮勝)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 9号」(コマ番号5/5・絵図四つ切右下、多門院上方向に間部下総守下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 千駄ヶ谷其外村々諸屋敷色分図. [2]」(コマ番号18/37・高須藩邸の左上、角筈村百姓地右側の同百姓地列が鯖江藩間部家角筈下屋敷跡になると思ういます。)

カメラ位置は西新宿一丁目交差点で、カメラ北方向新宿駅西口広場までが鯖江藩間部家角筈下屋敷跡になると思います。