このページでは、幕末の江戸で活躍した勝海舟にかかわる人物、場所をひろってみました。
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勝海舟生誕の地 – 勝麟太郎は父勝小吉の実家である男谷家で誕生しました。曽祖父・銀一は、越後国三島郡長鳥村の貧農の家に生まれた盲人で、江戸へ出て高利貸し(盲人に許されていた)で成功し巨万の富を得て朝廷より盲官の最高位検校を買官し「米山検校」を名乗りました。銀一は長男の忠之丞(男谷平蔵)に御家人男谷(おだに)家の株を買い与えます。男谷平蔵の三男が海舟の父・勝小吉です。麟太郎は生家の男谷家で7歳まで過ごした後は、赤坂へ転居するまでを本所入江町(現在の墨田区緑4-24)で暮らしました。
勝海舟邸跡(新婚時代) – 弘化3年(1846年)23歳で民子と結婚し、赤坂田町中通り(現赤坂3丁目13番2号のみすじ通り)の借家で所帯を持ちました。この時代に蘭学者・佐久間象山の知遇を得、象山の勧めもあり西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開いています。
勝海舟邸跡 – 安政6年(1859年)36歳の時、赤坂本氷川坂下(のちの氷川町)に転居しました。
蕃書調所 – 蕃書調所(蛮書調所 / ばんしょしらべしょ)は、1856年(安政3年)に発足した江戸幕府直轄の洋学研究教育機関で、開成所の前身で東京大学の源流諸機関の一つです。海舟は万延元年(1860年)6月蕃書調所頭取助となっています。
講武所跡 – 講武所は、幕末に江戸幕府が設置した武芸訓練機関で、諸役人、旗本・御家人、およびその子弟が対象で、剣術をはじめ、洋式調練・砲術などを教授しました。文久元年(1861年)9月天守番之頭格・講武所砲術師範役となっています。
軍艦操練所跡 – 軍艦操練所とは、江戸幕府が幕末に海軍士官の養成のために築地に設置した教育機関で、築地軍艦操練所とも呼ばれていました。1864年(元治元年)3月に付近で発生した火災が延焼して、施設の大半を失った。同年5月軍艦奉行となった、勝海舟はこれを期に神戸海軍操練所を整備しようと画策しましたが、小栗忠順らが速やかに築地軍艦操練所を再建したため、従来の方針が維持されました。
佐久間象山住居跡 – 勝海舟の妹、順が嘉永5年(1852年)に象山に嫁いだので勝は義兄となりました。
佐久間象山砲術塾跡 – 嘉永3年(1850年)7月、深川小松町(永代1)の松代藩下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教え、このころ、勝海舟も入門しました。
木村芥舟屋敷跡 – 日米修好通商条約批准のため、正使新見正興>一行とは別に咸臨丸が同行し、木村は咸臨丸の司令官として軍艦奉行となり、勝はこの時、遣米使節の補充員として乗船しています。
大久保 一翁 (忠寛)屋敷跡 – 嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航し開国を要求されると、老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集しました。これに勝も海防意見書を提出し、勝の意見書は阿部正弘の目にとまることとなります。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、勝は自ら人生の運を掴むこととなりました。また、大久保は勝海舟とともに西郷隆盛と江戸城明け渡しを取り決めた功労者です。
小栗上野介屋敷跡 – 戊辰戦争時には、早期停戦と江戸城無血開城を主張する勝海舟に対して、小栗は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと徹底抗戦を主張します。しかし、幕府の意向は無血開場にまとまり、上野介は慶応4年(1868年)1月15日、江戸城にて老中松平康英より御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡されます。
西郷隆盛と勝海舟の会見の地碑 – 江戸城総攻撃を目前にした慶応4年(1868年)3月13日、14日の両日、薩摩屋敷において勝海舟と西郷隆盛の会見が行われ、歴史的な無血開城<が決められました。
高橋泥舟・山岡鉄舟 旧居跡案内板 – 勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟は「幕末の三舟」として知られています。江戸城総攻撃に先立ち鉄舟は西郷隆盛と接触し、勝海舟と協力して江戸城無血開城への道を開きました。
勝海舟邸跡(生涯の地) – 明治元年45歳で、引退の徳川慶喜に従って、赤坂本氷川坂下(のちの氷川町)の住居から静岡市に移りますが、明治5年(1872)新政府の要請で再び上京し、満76歳で亡くなるまで赤坂区氷川町4番地(現赤坂6丁目6番14号)に住みました。
洗足池 – 洗足池のほとりに勝海舟晩年の邸宅「千束軒」がありましたが戦災で焼失。現在は勝夫妻の墓が残り、大田区の文化財に指定されています。
妙見社 – 妙見山別院は親子鷹でおなじみの勝小吉と勝海舟親子の熱烈な信仰を得ていたことで有名です。
壺屋總本店 – 明治維新の際には「長い間徳川様にお世話になったのだから」と大店がつぎつぎとやめていった時に勝海舟から「市民が壺屋の菓子を食べたいと言っているから続けるように」と言われ店を再開し、暖簾が残ることになったと云われています。