下地図右のサードバーのマーカーポイントをクリックすると、上地図がそのマーカーポイントにズームし、下地図にマーカーポイントの吹き出しが表示されます。吹き出しのリンクをクリックするとその付近のストリートビューが表示されます。
「東京府15区8郡時代の町村区分図」 – 「豊多摩郡落合町・北豊島郡長崎村」(地図左上方向・東長崎駅左上に千川上水が描かれています。)、「北豊島郡板橋町全図」(地図中央を千川上水が横断しています。)
千川上水(板橋区ルート)
[水路は6号線を横断し、マンションと住宅に挟まれた細い路地を進み、その先の六差路を右斜め、都立板橋高校の前をすぎます。現在、高校前からの水路には桜並木とそれを取り巻く低木が植えられグリーンベルトとなっています。この水路を進んでいくと五差路に出ます。正面に見える駐車場の隅に、電柱(信号)に隠れるように庚申塔が建っています。そのまま進むと右手に板橋区立交通公園があり、その30mほど先の左手、大山西町44番の民家の生垣の基礎部分のコンクリート壁に半分以上埋没した境界石が㊨ のマークを覗かせています。
水路は細い路地をそのまま進みますが、道路が二又に分かれる手前の駐車場(大山西町47)の片隅にも境界石が斜めになって残っています。この角を水路と別れて左に折れ、20mほど進むと大山西銀座商店街に出ます。その向い側の一角に『千川上水』に記載されている元禄地蔵が建っていたと思われる場所がありますが、その痕跡を見ることはできません。
水路に戻り、路地を50mほど直進すると、大山西町13番の塀に突き当たります。水路はその民家の下を通っています。迂回して進むと児童遊園(現在は緑地帯)が右側にあり、その中央部に大きな鉄板が二枚並んでいます。この鉄板が千川の開口部であり、千川上水出張所跡です。今でも、第四建設事務所が管理しており、担当者が掃除に来るということです。その傍らに弁天祠(地元の人は水神様と言っている。)があります。祠はフェンスで囲まれており、中の様子をうかがい知ることはできません。この商店街で商店を営んでいるご主人に話を伺ったところでは、その昔、この祠は近くのアパートの裏手(つまり、千川が流れていたあたり)に位置していたが、地元住民の働きかけにより、昭和58年(1983)3月、現在の位置へと移されたのだといいます。『千川上水路図』等によれば広瀬歯科医院のあたりにあったとされる田留水車跡の位置も、周辺住民にお聞きした範囲では水車そのものの存在を記憶している人はいなかったため、水車の存在場所は確認できませんでした。
水路はこの先で川越街道を横断して大山駅方面へと向かいます。アーケード商店街と交差する場所が元の大山橋です。昭和5〜7年(1930~32)頃に暗渠化されたとき、この大山橋は姿を消しました。
商店街を斜めに横切り、踏切を越えると東京都老人医療センターの前に出、板橋区立産文ホールと板橋第一中学校の間を通ります。その先の板橋税務署付近には青山(秋山)水車がありました。
水路の本流は山手通りを渡り、板橋区役所を右手に見て、国道17号を横断します。ガソリンスタンドの先の旧道を左に入り、半円状に迂回しながら再び17号に戻ります。この迂回地点のちょうど中ほど、駐車場になっている場所が、料亭文豪屋敷跡(板橋一丁目)であり、その前が喜内古(喜泰子)屋水車跡だそうです。
水路は再び国道に出、しばらく道なりに進んで、板橋三・3付近から斜めに国道を横断して板橋郵便局裏の道に入ります。この辺りから、旧中山道とほぼ平行に流れ、裏通りの閑静な住宅街の中を通ります。350mほどで板橋一丁目児童遊園の前に出ます。ここには板橋火薬製造所(後の造兵廠・板橋浄水所)への分水口がありました。この周辺は上水跡の道路が左右両側の土地に比べて著しく高く、いわゆる尾根上を流れていたことが一目瞭然です。水路はJR板橋駅前ロータリー広場の中央部を通り(中央の緑地帯の中に、それと分かるマンホールを見ることができます)、そのままほぼ直進して埼京線を潜り、北区滝野川6丁目と7丁目の境界線上の水路に続きます。もちろん人は潜れないので旧中山道で踏切を越え、最初の細い(人一人がようやく通れます)路地を右手に入ると水路に戻ることができます。埼京線のすぐ東側になるここに、石神井川に流れる分水があります。ここには千川マークの長方形型のマンホールが二枚一組で90度の角度で二組あり、見るからにそれと分かります。そこから100mほど行くと、交差点の角に水路に向いたかたちで馬頭観音あります。水路は、ここから中山道をやや離れるように迂回していますが、もともとの水路はそのままほぼ直進していたようですが、明治期に入ると板橋宿付近の人家が次第に増し、上水に汚水が入り込むおそれがでてきたため、川を迂回させたそうです。(板橋区教育委員会発行『いたばしの河川』1986年)
そのまま明治通りまで進むと「千川上水分配堰」(明治15年)と刻まれた石柱が立っています。千川上水はここから王子方面へと分配されていたのです。
明治通りを挟んで石柱の対岸には、豊島区立千川上水公園があります。かつての旧千川上水浄水場です。ここを経由して、六義園や本郷・湯島方面に給水していたのです。公園には現在もバルブ(仕弁)が残され、説明板も立っています。 (「千川上水現況調査報告(平成16年3月発行)(PDF:7820KB) – 練馬区」より)]