マーカーは南長崎交差点です。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図の南長崎交差点で千川上水が北方向に流れを変えて描かれています。
落合分水(水番所跡)
[千川上水は南長崎交差点で直角に左折して、北東に向かって流れます。現在、交差点角にはファミリーレストランがありますが、かつてはここには水番所がありました。また、ここからほぼ南東に向かって落合(葛ケ谷)分水がありました。この分水は潅漑用の分水で、西落合一・二丁目を経て、妙正寺川まで、約2kmの分水でした。 (「千川上水現況調査報告(平成16年3月発行)(PDF:7820KB) – 練馬区」より)]
[豊島区南長崎6丁目14番付近
●(写真上左・画像リンク) 南長崎交差点。この角手前で練馬区は終わります。水路はほぼ直角に左折して、道路の右側に移ります。交差点角は、ファミリーレストランになっており、東角は水番所跡、北角には水路に面して千川地蔵と御詠歌碑があったが、その跡らしきものはありません。また、向い側(明治乳業豊島工場跡地)のところに大正初年頃、この付近にあった籾山牧場の説明板があります。
●(写真上右・画像リンク)千川地蔵。大正14年(1925)10月21日、上水の川ざらいの際、橋付近の川に沈んでいたのを拾いあげ、祀られたとのことです。年代は不明ですが溺死者供養の延命地蔵尊そんと思われます。昭和27年(1952)、暗渠化のため、能満寺(のうまんじ)(旭丘2丁目15番)に移されました。頭部が比較的新しいのは後年補修したものでしょうか。
●合分水跡。南長崎交差点を右折してほぼ南東に向って流れていました。灌漑用の分水で西落合1・2丁目を経て妙正寺(みょうじょうじ)川に流れていました。全長2キロメートルです。新十三間(しんじゅうさんげん)道路工事のため中断されました。 (「水番所跡:練馬区公式ホームページ – Archive.is」より)]
カメラ位置は南長崎交差点・カメラ北西方向が千川通りで千川上水はここで北東方向に流れていました。また、カメラ東方向に水番所があったようです。