一行院

マーカーは一行院です。

一行院
[一行院は、赤坂一ツ木浄土寺の第九世源蓮社本誉上人利覚和尚(慶長11年1606年寂)が開山、永井右近大夫直勝(法名大雄院殿永井月丹大居士)が開基となり、永井家の家僕であった来誉故念が起立した庵を一寺として創建したといいます。永井家は当地周辺に下屋敷を拝領しており、永井宗家が「信濃守」を称していたことから当地周辺は信濃殿町とも呼ばれ、現地名信濃町になったといいます。また寺号については、起立した来誉故念が、千日毎に主家供養を執行したので千日寺と号し、当地が千日谷と称されるようになったといいます。当時所蔵の正観世音は、山の手三十三観音霊場28番となっています。
『一行院の板碑
鎌倉時代後期から室町時代後期までの七基の板碑仏舎利塔内に保存されている。完全な形のものはないが、都内では数少ない暦応2年(1339)の題目板碑が一基あり。出土の事情等は明らかではないが、一行院橋付近にあったものと思われ、この地域における中世の信仰や民俗を物語る資料として貴重である。(新宿区教育委員会掲示より)』
『一行院墓地の出土品 
昭和37年(1962)首都高速道路四号線工事の際に、一行院の墓地から人骨と共に出土した墓誌二基とその他副葬品類約三百点が舎利塔内に保存されている。墓誌には、文政10年(1827)と12年(1829)の紀年銘が刻まれている。各種の副葬品類は、近世の風俗・文化を具体的に示すものとして貴重である。(新宿区教育委員会掲示より)』  (「猫のあしあと」より)]

[一行院(いちぎょういん)は、東京都新宿区南元町にある浄土宗の寺院。現在、施設の老朽化対策による「新本堂」が完成、納骨堂の改修工事が行われている。
同院の創建は江戸時代の初期(慶長年間)にまで遡る。開山の利覚は赤坂・浄土寺の第9世であった。開基は永井直勝で、永井家はこの地に下屋敷を拝領した。同家当主は代々信濃守を名乗り、同地一帯の地名信濃町の由来になっている。
永井家の家臣で後に同院の僧になった故念が、千日回向の供養を務めたことから同院は千日寺と号するようになり、付近一帯の谷状の街は「千日谷」(せんにちだに)と呼ばれるようになった。
本尊阿弥陀如来像は元禄2年の作である。一行院は、かつては敷地面積約2000坪を誇る大寺院であったが、明治時代には隣接してJR信濃町駅が出来たため寺域が狭められ、昭和時代にはJR線の線路に隣接して首都高速4号線が出来たため、より敷地が狭められ、往時の様相は見られなくなった。その首都高が完成した頃の1962年(昭和37年)に千日谷会堂が完成した。
かつては墓地もあったが現在はなく、遺骨の大半は境内の納骨堂に納められている。墓地の中には永井直重や梶野土佐守、岩本昆寛(現存)などの墓があった。
寺宝としては善導、円光の木像、文化財としては鎌倉時代後期から室町時代後期にかけての板碑(新宿区登録有形民俗文化財)、そして千日谷会堂建設の際に出土した、江戸時代のものと思われる出土品(新宿区登録有形民俗文化財)がある。
千日谷会堂は宗派を問わず社葬クラスの大規模な葬儀にも対応可能な葬儀場として知られるが、本堂などの築年数が50年を経過し、耐震性などに問題があるため、2018年(平成30年)の完成を目途に舎利殿(納骨堂)と共に新たな施設に変わる。
2017年(平成29年)7月1日、新本堂が完成、引続き納骨堂の改修工事中で、2018年(平成30年)6月の完成を目指している。  (wikipedia・一行院_(新宿区)より)]

一行院資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 9号」(絵図四つ切左上・紀伊殿左下に一行寺が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 四ツ谷絵図」(絵図中央右方向に一行院が描かれています。)

カメラ東方向が一行院です。

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