全勝寺

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全勝寺
[曹洞宗系単立の全勝寺は、雄峰山と号します。全勝寺は、天正6年(1578)麹町貝塚に栄巌清繋和尚が曹洞宗竜源寺として創建しました。元和2年(1616)牛込藁店にそして当地へ移転しています。

『山県大弐墓
山県大弐(1725-1767)は、江戸時代中期の兵学者・尊王論者として著名な人物である。甲斐国(現在の山梨県竜王の篠原で生れ、名を昌貞、字を公勝、号を柳荘、洞斎と称した。初めは医者となったが、漢学を学び、宝暦6年(1756)江戸へ出て家塾を開き、国学・兵学を教え、多くの門下生がいた。宝歴8年(1758)「柳子新論」を著し、尊王論と幕政批判を説き、明和3年(1766)捕えられ、翌年没した。門下生に苫田松陰(?吉田松陰)などが出て、後に尊王論者の師と仰がれ、高く評価されるようになった。墓は、初め全徳寺にあったが廃寺となり、全勝寺に移された。(新宿区教育委員会掲示より)』  (「猫のあしあと」より)]

[吉田松陰らに影響を与えた尊王思想家、山県大弐の墓がある。
 山県大弐は、江戸時代の経世家、儒学者である。享保10年(1725)に甲斐国(山梨県)竜王に生まれ、郷里の加賀美桜鴻、五味釜川らに和漢の書を学び、京都へ出て有職故実を修めた。二十七歳で江戸に出て四谷坂町に住み、同町の岩槻藩大岡忠光の医臣となった。その後、八丁堀に私塾を開き、儒学・軍学などを講じた。竹内式部宝暦事件に際し著した『柳子新論』は、朱子学的大義名分論により尊王を説き、江戸幕府政治を批判したもので、尊王思想として反対派により幕府に訴えられた。明和3年(1766)に捕らえられて翌年四十三歳で処刑された。これを明和事件という。大弐の没後百年で明治維新が成し遂げられた。墓は夫人の里方の菩提寺である全徳寺にあったが、廃寺となったためここに移された。  (「全勝寺山県大弐の墓 – 新宿区観光協会|”新宿史跡・文化財” 散策マップ」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 四ツ谷絵図」(絵図左中央付近・松平摂津守(美濃高須藩)上屋敷の下に全勝寺が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [14]拾九元」(コマ番号3/5・地図中央下、松平摂津守の右に全勝寺が描かれています。)

全勝寺 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向が全勝寺参道です。門柱右前に区の説明板があります。

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