四ッ谷見附(四ッ谷門・上水掛樋)

マーカーは四ッ谷見附跡の石垣です。

四ッ谷見附(四ッ谷門)
[現在の四ッ谷駅付近には、甲州道中へとつながる西の要衝として四ッ谷門が構えられていた。石組みがいくらか遺されている。

江戸後期、四ッ谷門前の写真です。

四谷見附跡(2018年6月26日撮影)・wikipedia-photo

  (wikipedia・外濠_(東京都)より)]

[四谷門は寛永13年(1636)毛利元就の玄孫で初代長州藩主の毛利秀就が築いた。半蔵門(江戸六口)から四谷見附を経て甲州街道へ出る。この道筋は国府(府中)に通じる道で、国府路から麹町と名付けたという由来もある。参勤交代では高島藩(諏訪)、高遠藩飯田藩の三藩しか通過しなかったが、有事の際に甲府城へ向かうための退路であった。甲州街道と新宿追分で別れる青梅街道は、江戸城で使う漆喰や白壁の原料となる石灰岩青梅の小曽木から運ばせるために整備され、秩父から火薬焔硝も運ばれた。  (「大江戸歴史散歩を楽しむ会 – 四谷御門」より)]

新四ッ谷見附橋
[江戸時代、江戸城外郭門の一つ四谷門のあった所です。この橋も寛永年間(1624~1644)に始めて架けられた橋といわれています。古くは四谷見附門橋といわれていました。JR四ッ谷駅の北側を、六番町・麹町六丁目から新宿区に通じる橋です。橋を渡る右手前(千代田区側)には、四谷門の枡形の石垣の一部が残されています。現在の橋は、大正14年(1925)10月25日に架設、長さ38.9m、幅16.4mの鋼橋です。この橋と市ヶ谷橋との間の市ヶ谷濠は、新四ッ谷見附橋寄り約半分が埋め立てられ、外濠総合グラウンドその他になっています。またこの橋の上流も喰違見附跡まで埋め立てられていますから、新四谷見附橋や次の四谷見附橋は陸橋になっています。  (「新四ッ谷見附橋 – 千代田区観光協会」より)]

四ッ谷見附(四ッ谷門・上水掛樋)図(スクロールしてご覧ください。「東京都立中央図書館 – 玉川上水絵図 」より。)

  
玉川上水の江戸市中における構造と機能に関する研究全文 – 公益財団法人とうきゅう環境財団」では四谷御門の掛樋について下記のように記述されています。

玉川上水留. [4] 玉川上水赤坂柳堤田町三丁目より五丁目并溜池端通共樋枡御普請一件 天保四巳年二月より同五午年八月迄 御普請方 分冊ノ三」(80/80・四谷御門前お堀に掛樋が描かれ、周辺上水路が描かれています。)

玉川上水留. [9] 御本丸掛吹上掛玉川上水四谷御門外掛樋高枡其外共御請一件 天保六未年五月より同七申年八月 御普請方 分冊ノ四」( 13,14,15/77・四谷御門前お堀に掛樋平面図)

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸城見附図 2巻. [2]」(コマ番号43-46/68・四谷御門)
(拡大図)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図左下角に四ッ谷御門が描かれています。)
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 四ツ谷絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図上端中央から左方向に四ッ谷御門が描かれています。)

国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国麹町区番町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ切左下に四谷門が描かれています。)

絵本江戸土産 – 四ッ谷御門外(拡大図)

外濠の桜

四谷門跡 – Google Map 画像リンク」「四谷門枡形石垣に用いられた石材 – Google Map 画像リンク」「現存する四谷門の枡形石垣 – Google Map 画像リンク」「江戸城外堀史跡展示広場 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は新四ッ谷見附橋東詰で、カメラ北北東方向が四ッ谷見附跡の石垣です。

江戸城外堀跡(四谷門地区)案内板(Google Map 画像リンク)

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