妙行寺

マーカーは妙行寺です。

妙行寺
[長禄年間(1457~60)の創立で開山は本立院日純。麹町清水谷の本乗院という草庵に修験者頻伽法印がいたが、寛正(1460~66)の頃、真言宗から日蓮宗に改宗し、身延11世行学院日朝の弟子となり、日学と改名して開創された。寛永11年(1634)、江戸城拡張に従い、清水谷より現在地に移転した。
当山に祀る稲荷尊は身延山の草分分体にして草分稲荷尊と称し、地民の鑚仰厚かりしという。また江戸中期、10代将軍家治の時、檀徒伊藤氏の娘が側室として仕え、その縁により一族大奥の中﨟等の役職に就くものも多く、赤門建立を許されたという。故に四谷麹町界隈では「赤門寺」として有名を馳せた。  (「稲荷山 妙行寺・みょうぎょうじ(赤門寺)[新宿区] – 寺院紹介 : 日蓮宗」より)]

[三銭学校は、明治10年当時、笹寺長善寺住職、永住町理性寺住職等が発起人となり、四谷区内50ヶ寺の住職と協議し、基金500円余で四谷三宝義和団というのを設立して、鮫ヶ橋安珍坂下の妙行寺を校舎にして共立友信学校と名づけ、その当時の祥山寺住職小島栄年が、当時有名な鮫ヶ橋貧民窟の児童に教科書や筆墨の類まで給して教えた。そこが狭くなり舟町全勝寺に教場を移したが、基金を使い果たしたので、なお追加したがそれも続かず明治24年8月遂に廃校となった。
その後祥山寺小島住職に貧童父兄から学校継続の懇願頻りであったため、小島住職は区内有志に頼み、毎日3銭宛の寄付を仰いで、この祥山寺境内に学校を開いた。これが三銭学校の由来である。校舎は間口2間に奥行5間、1ヶ月6円の経費がかかった。学童は常に40-50名居た。明治34年頃まであったが(以上新宿区文化財による)、明治36年9月、鮫ヶ橋尋常小学校が東京市において経営され、理髪所まである特殊学校を開いたので三銭学校の必要はなくなった。(四谷南寺町界隈より)  (「祥山寺|新宿区若葉にある臨済宗系単立寺院 – 猫の足あと」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図」(絵図中央左方向・東福院右下方向に妙行寺が描かれています。)

妙行寺 – Google Map 画像リンク

カメラ西北西方向が妙行寺山門です。