平山行蔵居住地

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平山行蔵
[平山 行蔵(ひらやま こうぞう、宝暦9年(1759年) – 文政11年12月14日(1829年1月19日))は、日本の江戸時代後期の幕臣で兵法家。剣術流派として講武実用流を称した。間宮林蔵近藤重蔵とともに「文政の三蔵」と呼ばれる。名は潜。字は子竜。号は兵原・兵庵とも。
江戸幕府御家人、平山勝籌(甚五左衛門)の子。行蔵は伊賀組同心として30俵2人扶持の微禄でありながら、四谷北伊賀町(現新宿区三栄町)稲荷横丁の自宅に道場を構えていた。
真貫流の山田松斎(茂兵衛)に学び、一流を起こして忠孝真貫流と称し、後に講武実用流と改めた。軍学を斎藤三太夫(長沼流)、槍術を松下清九郎(大島流)、柔術居合を渋川時英(伴五郎、渋川流。柔術については竹内流「腰之廻」も)、砲術を井上貫流左衛門にそれぞれ学んだ。 このほか、水泳馬術弓術棒術などいわゆる「武芸百般」に通じ、学問についても儒学を基礎に農政・土木学に至るまで習得したという。
行蔵は背丈が低かったにもかかわらず、3尺8寸(約115cm)という長い刀を差していた。毎朝起きると7尺の棒を振ること500回、長さ4尺・幅3寸の居合刀を抜くこと200回 – 300回、読書をしながらケヤキの板を両拳で叩いて拳骨を鍛え、書に倦むと水風呂に入って惰気を払うといった生活で、61歳になるまでは土間に寝、夜具を用いなかった。居間には長刀、木刀、長竹刀、槍など数十本に始まり、大砲、抱え筒、鉄砲、鉄棒、薙刀などの武具、具足櫃、木箱が乱雑に詰め込まれ、庭は草ボウボウという有様だった。
扶持米を俵のまま玄関に起き、玄米をそのまま炊いて食べた。居間の押し入れに酒の入った4斗樽を据え付けて冷や酒を呑むことは、晩年、中風のために起居が不自由になってもやめなかった。「べらぼうめ」が口癖で、世の文弱な風潮に憤激しながら没したという。1828年(文政11年)12月14日没。享年70。四谷愛住町、永昌寺に葬る。
門人のうち、別格筆頭が相馬大作事件相馬大作(下斗米秀之進)である。このほか、吉里信武(呑敵斎、呑敵流)、妻木弁之進、小田武右衛門、松村伊三郎を「平山門の四天王」という。 勝海舟の父、勝小吉が行蔵に学んでおり、『平子龍先生遺事』という著作がある。  (wikipedia・平山行蔵より)]

新宿区 坂町遺跡
[本遺跡は御持組と御先手組にまたがる土地である。御持組は持筒組と持弓組に分かれており、『明良帯録』に「此場は武勇の誉の人にて、御床机の左右に居て、帷幕の内座を離れず、御旄のとよみをはこる、」とあるように戦時の鉄砲隊と弓隊のことである。『吏徴』別録・『大猷院殿御実記』によれば、その沿革は元和9年(1623)6月1日に斎藤與三右衛門三存ほか3名が持組頭に任じられている。この時は持筒3組・持弓1組であった。ただし。「東職記聞」には慶長12年(1607)に持筒、元和元年(1615)には持弓頭が同職に任命されていた説もある。)。その後、寛永元年(1624)に持弓組が2組、寛永9年には持筒組が1組増加し、計持筒4組、持弓3組となり、以後定着した。各組の1組は慶安3年(1650)に西之丸付となる。西之丸付が設置されないときは全ての組が本丸付となるのが慣例であった。平時の職掌は江戸城本丸の中之門、西之丸の中仕切門、二之丸の銅門等の警護が役職であった。組織構成は頭が1人(甫布衣・1500石高)のもとに与力が10騎、同心がはじめは50人が属し、正徳期には55人に増員された(55人に増員された時期については不明であるが、正徳期の『御家人分限帳』に初見される。)。禄は与力が80石、同心が30俵3人扶持。その後、持弓組は文久2年(1862)、持筒組は慶応2年(1866)に廃止された。
 御先手組は弓組と鉄砲組からなり、『明良帯録』によると、「此場は武勇誉のある人の勤場也、隊卒を率い、非常を守る、」とあるように、持組と同じく戦時の鉄砲隊・弓隊でのことで、その名の通り先陣を務めた。『吏徴』別録によれば、寛永9年(1632)に弓10組、鉄砲15組を置いたが、後に弓9組、鉄砲20組となり、別に西之丸に弓2組、鉄砲4組が置かれていた。平時の職掌は蓮池・平川・下梅林・紅葉山下・坂下などの諸門の警護や、将軍家の寛永寺増上寺参詣際、警備の任にあたっていた。また、組の内の1組は火付盗賊改として、江戸市中の防火と警察の役を果たした。さらに、諸大名の依頼を受けて願達を取り次ぐ場合もあった。組織構成は頭1人(布衣・1500石高)に与力6ないし10騎、同心30ないし50人が属していた。禄は組によって異なるが、与力が給地200石から現米80石、同心が30俵2人扶持。その後、慶応2年(1866)に廃止された。  (「江戸遺跡研究会会報83 – 考古学オンライン」より)]

カメラ位置は三栄公園(福壽院跡・明治40年杉並区高円寺南2-40-5に移転)前で、カメラ北東方向一画に伊賀者、御持組大縄地で平山行蔵(伊賀組同心)の拝領地もあった。御持組大縄地の北方向が坂町遺跡です。

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 四ツ谷絵図」(絵図左上方向御持組屋敷地が描かれています、その地に平山行蔵住居があったと思われます。また、その右方向に福壽院が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 十二」(3/3・地図左中・尾張殿の左方向に御持組大縄地と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 十一」(25/203~31/203・地図福壽院の右上に伊賀者、その下に御持組大網地と記述されています。)

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