愛染院

マーカーは愛染院です。

愛染院
[新義真言宗の愛染院は、獨鈷山光明寺と号します。御府内八十八ヶ所霊場18番札所です。
高松喜六の墓
内藤新宿の生みの親高松喜六は、もとは喜兵衛といい浅草名主であった。喜六は、当時甲州街道の最初の宿場が日本橋を出発して四里余り(約16キロ)の高井戸であり、大変不便であったので、元禄10年(1679)同志4人とともに江戸幕府に、内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)に宿場を開設する請願を提出した。翌年許可がおり、喜六は宿場開設資金5600両を納め、問屋本陣を経営した。正徳3年(1713)8月に没したが、高松家は代々内藤新宿の名主をつとめた。墓石は高さ80センチで、右側面に「内藤新宿開発人高松金八友常と刻まれている。
塙保己一の墓
「群書類従」の編者として名高い江戸時代中期の国学者塙保己一は、延享3年(1746)現在の埼玉県児玉郡保木野村に生まれた。姓は萩野、幼名は辰之助といった。5歳で病にかかり、7歳で失明したが、13歳のとき江戸に出て雨富検校須賀一の門下となり、その本姓塙をもらった。優れた記憶力を認められ学問を許され、国学・漢学・和歌・医学などを学んだ。特に国学では賀茂真淵に学び、造詣を深めた。天明3年(1783)検校となり、水戸藩の「大日本史」の校正なども手がけた。寛政5年(1793)には、和学講談所を開設し、幕府の援助も受け、書籍の収集と門人の指導にあたった。文政2年(1819)群書類従を完成させ、同4年(1821)には総検校となったが、同年9月「続群書類従」の編纂なかばで没した。享年76歳であった。墓所は、最初近くの安楽寺に造られたが明治31年(1898)廃寺となり、愛染院に改葬された。墓石は高さ103センチである。  (「猫のあしあと」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 四ツ谷絵図」(絵図中央左上東福院の上に愛染院が描かれています。)

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カメラ南東方向が愛染院山門です。

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