戒行寺

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戒行寺
[日蓮宗の戒行寺は、妙典山と号します。文禄4年(1595)麹町に戒行庵として創建、後に宮重作兵衛重次(正保3年1646年歿)が開基となり戒行寺となりました。江戸期には身延山末頭5ヶ寺の一つとして繁栄、塔頭数ヶ院を擁していました。境内には長谷川平蔵の供養塔があります。
戒行寺の縁起
妙典山と号し、身延山久遠寺の末。
文禄4年(1595)起立で開山日養上人。
「再校江戸砂子」に記すところによれば、当寺寛永のころまでは戒行庵とて麹町一丁目(書上には八丁目)御掘端にあって、常題目修行の小庵なりしが、一寺に建立せん事を願う。隣家に大御番宮重作兵衛重次(正保3年7月20日歿)の居住ありしに、志願を語りければ、宮重氏まづ檀那となりて力を合せ終に一寺となれり。当所へ移されしは明暦の頃という。ゆえに宮重氏の開基である。
明暦に移転せしというのは誤りなりと「東京案内」には、南寺町にあり。文禄4年僧玉泉院日養(日養は慶長17年1月7日寂)麹町八丁目に創建し寛永11年(1634)此地に移す。昔時境内3,700坪を有し、寺門大いに繁昌なりしという。分身鬼子母神あり。定朝の作という。とあり、「御府内備考」巻之64、四谷の条に、
当門前町屋起立の儀は、寛永11甲戌年当所へ替地相成、境内惣坪数3710坪の内30坪、門前町屋に相成申候。元地以来町屋有之候哉。引地以後の義に候哉、享保10巳年2月類焼、相願済並町御奉行御支配相成候年月共書き物焼失仕り相知れ不申候。尤永代門前前地に御座候。とあって、寛永11年説が確証出来る。しかるに「江戸名所図会」も、明暦説を説いている。当寺の日貞師は、山本勘助晴幸(はるゆき)入道道鬼斎が孫にて、延山日悦承認の徒弟也(割注:寛保中八十余歳にして遷化せらる)。当寺は明暦に至り此地に遷さる、総門の額に妙典山と書せしは、朝鮮国李彦の書也。此所の坂を戒行寺坂、又其下の谷を戒行寺谷と唱へたり。戦後すっかり新築なっているが明治頃の規模は大体江戸時代のままのように思われる。「東京名所図会」に記す処では、山門「妙典山」三字の扁額は、朝鮮国李彦祐(りげんゆう)の書たり、門内甃石一条、寸埃を止めず、本堂は東南に面す、七間四面の蘭若(らんにゃ)向拝、勾欄付、紅梁の端に象及び獅子頭を彫り、懸魚に飛竜を躍らす、玄関は折廻はして西南に面す、式台附なり、隣りて内玄関あり。
本尊 十界曼荼羅 木像十八体
本堂 間口七間奥行七間並内陣三間四面
庫裡 間口八間奥行五間
表門 間口一丈奥行六尺並門番所九尺二間
官有地 911坪8合5勺
共有墓地 952坪4合2勺
是、現在(明治36年)の実況なり。
(中略)
往時は塔頭に、円立院、本寿院、観行院、覚行院があったが、覚行院は江戸時代既に廃され、他の寺院も維新頃本寺へ合併されたかなくなってしまった。(四谷南寺町界隈より)  (「猫のあしあと」より)]

戒行寺 – Google Map 画像リンク

カメラ東方向が戒行寺坂上で、坂上左に戒行寺坂の標識があり、その左方向が戒行寺になります。

戒行寺資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 四ツ谷絵図」(絵図中央上方向に戒行寺が描かれています。)

江戸名所図会」(画像は国立国会図書館ウェブサイトより取得)・日宗寺戒行寺汐干観音

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「日宗寺戒行寺汐干観音」(9-5)、「鬼子母神、妙典山戒行寺、汐干観世音菩薩解説」(9-4)、「汐干観世音菩薩解説-2・右ページ2行目まで」(9-6)

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