日宗寺

マーカーは日宗寺です。

日宗寺
[「四谷南寺町界隈」による日宗寺の縁起
日蓮宗若葉2丁目3番地(元四谷区鮫ヶ橋谷町2丁目35番地)
当寺のことは「再校江戸砂子」にもみえているが、文政寺社書上に依ると、
高見山日宗寺は房州小湊誕生寺末、四谷南寺町にある。境内の大部分は拝領地であるが、その内142坪余の年貢地を所有し合わせて618坪に成る(安永東都伽藍記も同じ)。
起立は元和5年己未、麹町9丁目清水谷に在って弘法山浄蓮寺と称した。
「此処え替地被仰付年号之儀相知不申候」とあるが、外濠拡張のため寛永11年に現地に移転されたのである。
山号寺号を今の称に変えたのは、再興したともいうが、開基した檀越藤堂氏夫人の法号に因った。この人は三代目藤堂大学頭高次の室である。法名を高見院殿心月日宗大姉といい、慶安2己丑年7月18日に歿した。その法名を執って現在の寺号に改められた。それゆえ、昔時藤堂家から永代100石宛の寄進があった。
開山は了円院日竜と称し、万冶元年戊戌5月14日の寂である。中興は守玄院日完で、宝永5年戊子9月2日寂している。本尊の夜明鬼子母神については次の由来がある。
夜明鬼子母神、日法上人の作、文永元年10月3日(1264)、日蓮上人43歳のとき、母を拝せむがために小湊の旧里へ帰る、母悦のあまち頓死せり、日蓮大に歎て生活の事を祈、我法末代に流布すべくば経力を見せしたまへと、弟子日法に鬼子母神の像を彫刻させて其夜いのるに、暁に及て母蘇生し、寿を延る事4年なり、よって夜あけの鬼子母神と号、鎌倉の住人鎌田氏此像を伝来す、霊夢によりて享保13年10月4日当寺に納むとなり、今に至て霊現いちじるしといふ。
この事跡、「江戸名所図会」にもやや同文を記しているが項目は寺名でなく、鬼子母神としてある。この像の御丈約3寸5分ほどのもの、今伝えて同寺に安置し、祈祷本尊とするという。(中略)
丁度この地点は前記桜川の水源で、古名佐目河、または鮫河といった。地形図でみても元東信濃町永井邸(永井信濃守)の入河や一行院の入河が皆、元鮫ヶ町に傾斜している。幕末切図でみると鮫ヶ橋谷町くらやみ坂下辺りから鮫ヶ橋仲町を通り、紀之国坂下をぬけて溜池あたりへ出ているようである。
鮫ヶ橋の起源は「江戸砂子」にもみえているが、省略して往古は相当な入江であったらしく、入(いり)という処もあり、のちには開発して田となり仲殿田という処もあった。
この処は江戸時代には、元々鮫ヶ橋北町と云って、書上に北町一円を入といい、北の方の離地は日宗寺境内に付日宗寺前と相唱え候とある。法蔵寺の下辺り、向い側日宗寺前から元の谷町1丁目にかけて(今の若葉2~3丁目)、その名残のような曲折した道路が谷の低地を未だに形ち作っている。
江戸期切絵図を見ると法蔵寺横町よりは、この寺の前には出られず、天王横町より入り東福院坂を下って日宗寺に入ったように記してあり、明治中頃法蔵寺前より新道を切開いて、この寺の前から鮫ヶ橋谷町の通りへ出られるようになった。
「東京府志料」には寺地618坪とある。現在もその位であろう。(四谷南寺町界隈より)  (「日宗寺|新宿区若葉にある日蓮宗寺院 – 猫の足あと」より)]

左上に日宗寺が描かれ、その下青丸が桜川の水源です。

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図」(絵図中央左側に日宗寺が描かれ、日宗寺前で道路が途切れています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 赤坂四谷鮫ヶ橋辺一円絵図」(コマ番号2/3・絵図中央左上方向、伊賀町の下方向に日宗寺が描かれ、日宗寺前で道路が途切れています。)

日宗寺 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向が日宗寺山門です。