竹町(玉川上水樋管)

マーカーはカメラ位置です。

竹町
[麹町十一丁目のあたりは竹屋(竹職)が多いことから竹町と呼ばれた。北側の塩町一丁目は文政元年(1818年)に敵討ちが行われた場所である。百姓同士の敵討ちという変わったものであった。麹町十一丁目の町並が東西に延びるのに対し、麹町十二丁目は南北に延びる町である。両町の交差するあたりは大横町といい、江戸後期には繁華街として賑わった。  (「江戸切絵図散策」より)]

[「四谷」という言葉のいわれは定説がありません。四つの茶屋(谷)からきたという説、四つの谷からきた説があるが、裏付けがありません。四ッ谷駅(町名は「ッ」がない)開業は、1894年(甲武鉄道、現在の中央線)です。外濠ができたのは1636年で、四谷見附門という城門が設けられました。現在のJR四ッ谷駅脇に見られる石垣は当時の名残です。 このため、周辺の土地が代地として、麹町の11丁目から13丁目として四谷側(今の四谷1から3丁目)に移されました。その後、麹町からの寺院の転入が増えたこと、見附門の設置により、寺院の周辺には門前町屋が軒を並べるようになりました。江戸の四谷は、杉の名産地で、「四谷丸太」という名称があり、漸次、高井戸青梅に移りました。また、四谷1丁目辺りは「竹屋」が多く、竹町といわれ、その続きには「箪笥町」の町名がありました。
現在の四谷見附橋大正3年に架橋され半蔵門から新宿を直線で結んでいます、それまでは麹町大通りから石垣と北側の橋を経て西に直進し、四谷3丁目辺りで新宿通りと合流しました。この辺りは大横町とよばれ、山手屈指の繁華街だったといわれます。  (「千代田区観光協会 – 第53回 四谷界隈 その1 ~昔の四谷~」より)]

[ ☆ 文政七年(1824) 
 ◯『藤岡屋日記 第一巻』p345(藤岡屋由蔵・文政七年(1824)記) 
  〝文政七甲申十月十日 
   四ッ谷塩町敵討
    上野緑野郡倉賀野宿在、安久津村百姓 才市養子 宇市 申十八
   (四ッ谷塩町にて、親の敵安兵衛を討つ)〟    (「浮世絵文献資料館」より)]

玉川上水樋管
玉川上水留. [20] 御本丸掛吹上掛玉川上水四谷御門内外樋枡御普請并四谷中箪笥町通樋筋御修復一件 天保十二丑年五月より十二月迄 分冊ノ二」(60/100・麹町13丁目(玉川上水分水)から竹町までの「箪笥町」周辺の玉川上水樋管が描かれています。)
玉川上水留. [21] 御本丸掛吹上掛玉川上水四谷御門内外樋枡御普請并四谷中箪笥町通樋筋御修復一件 天保十二丑年五月より十二月迄 分冊ノ三」(24/69・麹町13丁目(玉川上水分水)から竹町までの「箪笥町」周辺の玉川上水樋管が描かれています。)
玉川上水留. [19] 御本丸掛吹上掛玉川上水四谷御門内外樋枡御普請并四谷中箪笥町通樋筋御修復一件 天保十二丑年五月より十二月迄 分冊ノ一」(33,68/95・竹町、四谷御門前掛樋周辺の玉川上水樋管が描かれています。66/95・麹町13丁目(玉川上水分水)から竹町までの「箪笥町」周辺の玉川上水樋管が描かれています。)
玉川上水留. [9] 御本丸掛吹上掛玉川上水四谷御門外掛樋高枡其外共御請一件 天保六未年五月より同七申年八月 御普請方 分冊ノ四」(13~15/77・四谷御門前の掛樋が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 四ツ谷絵図(嘉永3年・1853年)」(絵図上中央付近・四ツ谷御門の下方向に麹町十一丁目の間に竹丁ト云、麹町十二丁目上に大横丁と描かれています。また、麹町十一丁目の左に塩丁一丁目が描かれています。)

カメラ位置は新宿区四谷一丁目交差点で、カメラ東南東方向が絵図で描かれる竹丁で、カメラ南、北方向が大横丁です。

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