マーカーは策の池です。
関連リンク – 高須藩松平家上屋敷跡(金丸稲荷神社)、高須藩松平家角筈屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP581・コマ番号334/553から高須藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 四谷伊賀町」がこの地になります。
高須藩
[信濃伊那郡・高井郡・水内郡内に3万石の所領を得て高井藩を立藩していた尾張藩第2代藩主徳川光友の次男松平義行は元禄13年(1700年)3月25日、所領の半分である1万5000石を高井郡・水内郡の領地と美濃国石津郡・海西郡内の領地とに交換された。よって高須に居所を定め、再度高須藩が成立し、以後尾張徳川家御連枝である松平家が領した。
尾張藩主の子が立藩しており、宗家に嗣子が絶えたときこれを相続し、尾張藩を輔弼する役割を果たすなど支藩として機能した。しかし、所領は幕府より与えられたものであり、尾張藩からの分知ではないことから、完全な支藩であるとは言えない。ただし、第3代藩主の松平義淳は徳川宗勝として尾張藩第8代藩主となり、第5代藩主の松平義柄も徳川治行として第9代藩主徳川宗睦の養子となった(相続前に早世)。また、第10代藩主松平義建には子が多く、次男は尾張藩第14代藩主徳川慶勝、三男は石見浜田藩主松平武成、五男は高須藩第11代藩主から尾張藩第15代藩主、さらに後には御三卿一橋家当主となった(名乗りも松平義比→徳川茂徳→徳川茂栄と変遷)。七男が会津藩主松平容保で、九男が桑名藩主松平定敬と幕末に活躍した藩主となった。十男の義勇は高須藩第13代藩主となっている。 (wikipedia・高須藩より)]
策の池
[金丸稲荷神社の鳥居の前の細い道を道なりに50m進むと、「津の守(つのかみ)弁財天」が池のほとりに鎮座しています。弁財天は「策(むち)の池」のほとりにあります。この池で徳川家康(松平摂津守という説もある)が乗馬用の策(むち)を洗ったことから「策の池」と呼ばれました。 「策の池」は「目黒不動の滝」「王子の名主の滝」等と並ぶ江戸八井と呼ばれていましたが、現在は規模がかなり縮小していますが、住宅街の中のオアシスとして憩いの場となっています。 (「江戸屋敷にあった神社(9) 金丸稲荷神社」より)]
松平摂津守上屋敷跡下水暗渠
現役で機能する江戸期上屋敷の排水施設
[最近になってその遺構が新たに発見された。新宿区の「松平摂津守上屋敷跡下水暗渠」である。平成 9(1997)年 7 月、新宿区荒木町の下水道再構築工事の際、地下10m余りのところから石組みの暗渠が発見された。しかもこの暗渠は昭和初期に敷設された鉄筋コンクリート製の下水管に接続し、実際に公共下水施設として充分に機能していたという。緊急発掘調査の結果、石組みの延長は53m、断面は幅63㎝、高さ88.8㎝の長方形。底石、壁面 3 段、蓋石から構成されていることが明らかになった。
この遺構は、この地に屋敷を構えていた松平摂津守義行が邸内に造営された池の排水用として天和 3(1683)年頃に構築したものだ。石組み暗渠の上に10m以上に渡って盛土を施しており、これにより合計4,500㎡にもなる 2 つの広大な泉水が築かれた。池の水は玉川上水から給水され、この石組み暗渠を経て東側を流れる紅葉川へと排水されていた。
暗渠は再構築工事にともない一部が撤去されたが大部分は存置され、新設した下水道管とともに現在も重要な下水道インフラの一端を担っている。再整備工事により撤去された部分は現場に近い落合水再生センターの敷地内に復元、展示された。 (「松平摂津守上屋敷跡下水暗渠 – 東京土木施工管理技士会」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 四ツ谷絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図中央左方向に松平摂津守上屋敷が描かれています。その左上道に坂の印が描かれています、その場所が津の守坂です。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [14]拾九元(嘉永五年・1852年)」(コマ番号3/5・絵図左に松平摂津守と記述され、その右の道が津の守坂になり、伝馬町三丁目から屋敷地の間に車力門横町と記述されています。)
「荒木町12津の守弁財天 – Google Map 画像リンク」
策の池のカメラです。