鮫河橋谷町

マーカーは若葉三丁目です。

鮫河橋谷町
[鮫河橋の低湿地は当初より劣悪な住環境であったとされ、元鮫河橋八軒町では、誉田坂から当地に代地を与えられた所、埃の舞う劣悪な環境を嫌い、8軒しか移住しなかったためその名が付いたという。また、本来伊賀者の土地であったため、町人に家持が不在のまま店借の貧困層が集中し、治安の悪化を招いたと指摘される。『紫の一本』では「寂しさや友なし千鳥声せずば何に心をなぐさめが橋」と詠まれる。元禄15年(1702年)5月27日吉原訴訟書上に鮫ヶ橋の名が出ており、当時から売春宿があった。江戸時代中期には岡場所として知られ、後期には本所吉田町(現・墨田区石原)と同じく切店2箇所に夜鷹屋が存在した。元鮫河橋仲町の二ノ橋より表町へ出る道は貧乏横丁と称された。
慶応2年(1866年)米価高騰により全国で打ちこわしが発生した際には、6月2日元鮫河橋周辺でも打ちこわしが行われ、商店等が被害を受けている。慶応4年(1868年)7月には十五番組名主次右衛門支配8ヶ町について「其日稼之者人別書上」において実態調査が行われている。中でも江戸時代から下層民が集積していた鮫河橋、芝新網、山崎町(後の下谷万年町)は、明治時代に農村から流入した貧困層が集住してスラム街が形成され、三貧窟と呼ばれたが、この中でも鮫河橋は最大規模だった。
明治10年(1877年)長善寺(日宗寺)に三銭学校、明治39年(1906年)に二葉貧民幼稚園が出来るなど、慈善家による教育の普及が図られた。  (wikipedia・鮫河橋より)]

[永井荷風は「日和下駄(第八 閑地)」で、このあたりのことを次のように書いている。
『四谷鮫ヶ橋と赤坂離宮との間に甲武鉄道(現中央本線)の線路を堺にして荒草萋々(せいせい)たる日避地(ひよけち)がある。初夏の夕暮私は四谷通の髪結床へ行った帰途または買物にでも出た時、法蔵寺横町だとかあるいは西念寺横町だとか呼ばれた寺の多い横町へ曲って、車の通れぬ急な坂をば鮫ヶ橋谷町へ下り貧家の間を貫く一本道をば足の行くがままに自然とかの火避地に出で、ここに若葉と雑草と夕栄(ゆうばえ)とを眺めるのである。
この散歩は道程の短い割に頗る変化に富むが上に、また偏狭なる我が画興に適する処が尠(すくな)くない。第一は鮫ヶ橋なる貧民窟の地勢である。四谷と赤坂両区の高地に挟まれたこの谷底の貧民窟は、堀割と肥料船と製造場とを背景にする水場の貧家に対照して、坂と崖と樹木とを背景にする山の手の貧家の景色を代表するものであろう。四谷の方の坂から見ると、貧家のブリキ屋根は木立の間に寺院と墓地の裏手を見せた向側の崖下にごたごたと重り合ってその間から折々汚らしい洗濯物をば風に閃(ひらめか)している。初夏の空美しく晴れ崖の雑草に青々とした芽が萌え出(い)で四辺(あたり)の木立に若葉の緑が滴る頃には、眼の下に見下すこの貧民窟のブリキ屋根は一層汚らしくこうした人間の生活には草や木が天然から受ける恵みにさえ与(あずか)れないのかとそぞろ悲惨の色を増すのである。また冬の雨降り濺(そそ)ぐ夕暮なぞには破れた障子にうつる燈火の影、鴉(からす)鳴く墓場の枯木と共に遺憾なく色あせた冬の景色を造り出す。』
その立ちならぶ貧家からちょっと鉄道線路の土手を越えると、風景は一転し、そのむこうにはひろびろした火避地が広がっていた。貧民窟から広い閑地そのむこうに御所といったような風景の突然の変化は東京という都市の独特な特徴なのかもしれない。
貧しげなる生活をおくる人々、その隣で優雅なる生活(たぶん)をおくる人々、まったく異なるようであるが、同時代を生きたということで等価である。あるいは、貧しいが自由で楽しい人生をおくる人々かもしれず、豊かだが不自由でつまらぬ人生をおくる人々かもしれず、一人一人の生活をみればまた違った内面をもっていたかもしれない。いずれにしても、人が生活する上で一方が重く他方が軽い存在ということはない。これはいまも同じである。荷風の描く風景からそんなことを連想してしまった。  (「鮫河橋跡 – 東京さまよい記 – Gooブログ」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図」(絵図中央・南寺丁上に鮫ヶ橋谷丁が描かれています。また、本庄安芸守右方向に八軒丁が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 赤坂四谷鮫ヶ橋辺一円絵図」(コマ番号2/3・絵図中央に谷町が描かれています。また、永井左門右下方向、鮫ヶ橋南町通左に伊賀者給地八軒町が描かれています。)

カメラ位置は若葉三丁目で、カメラ方向右が西念寺、法蔵寺方向で、カメラ東方向が若葉公園方向になります。