品川用水

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    「東京府北多摩郡三鷹村土地宝典」、「今昔マップ」を参考に品川用水路を想定してみました。

    今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。

    国立国会図書館デジタルコレクション – 東京府北多摩郡三鷹村土地宝典」(全界図コマ番号7,8/115に品川用水が描かれ、詳細図コマ番号54,59,60,61,63,64,65,74,75,79,80,89/115にも品川用水が描かれています。)

    品川用水関連ページ
    玉川上水(品川用水取水口跡)品川用水・仙川用水分岐点品川用水/水無川(中川・中川遊歩道入口)品川用水/水無川(水際の散歩道)品川用水(玉石垣のある風景)北見橋跡碑品川用水路跡野沢水車案内板朝日地蔵堂(地蔵の辻)水車小屋跡(品川用水)平塚橋と品川用水熊本藩細川家下屋敷跡(戸越公園)

    品川用水
    [品川用水(しながわ ようすい)は、現在の東京都品川区にかけての地域へかつて農業用水を供給していた用水路である。玉川上水に33あった分水のうち最長級であり、『上水記』によればその流長は7里半であったとされる。明治末期から大正時代にかけて区域の市街化にともない工業用水路および排水路へと役割を変え、昭和20年代後半に埋め立てられて消滅した。
    概要
    かつての水路のほぼ全ての区間が暗渠化または埋め立てられており、現在ではその経路を確認できる場所は少ない。
    玉川上水からの取水口は現在の東京都武蔵野市にあり、三鷹市世田谷区目黒区を経由して品川区に流れていた。地蔵の辻(現在の品川区小山)で分水し、一方は平塚橋を東進して桐ヶ谷村(品川区西五反田)や居木橋村(品川区大崎)を経由して目黒川へ合流していた。他方は現在の補助26号線を通り下蛇窪村(品川区戸越)でさらに分水して上蛇窪村(二葉)や大井村へ。細川家下屋敷(現在の戸越公園)を経た流れは南品川宿や二日五日市村(西品川広町など)を北進して目黒川に注いでいた。品川周辺ではこれら以外に多数の分水や末流が存在した。
    経緯
    ●仙川用水 – 仙川養水とも。正確な時期は不明だが、江戸時代初期の開削とされている。仙川組四ヶ村(上仙川村・中仙川村・金子村・大町村、現在の三鷹市と調布市の一部)の水田を潤す用水路として開削された。千川上水とは別のもの。
    ●戸越上水 – 1663年(寛文3年)から翌年にかけ、熊本藩細川綱利の弟、細川利重が細川家下屋敷(現戸越公園)の庭内泉池用水として、仙川用水から分水を受けて開削した。すなわちこの時点では玉川上水の境分水口から戸越上水への分岐点である野川分水口までは仙川用水、野川分水口から細川家下屋敷までが戸越上水であった。
    ●品川用水 – 1666年(寛文6年)、戸越上水が廃止された。理由は定かではないが、泉池用水としては庭内の湧水でこと足りたためか、水路の維持費が莫大なものとなったためと考えられる。その後、品川領二宿七ヶ村(北品川宿、南品川宿、戸越村、上蛇窪村、下蛇窪村、桐ヶ谷村、居木橋村、大井村、二日五日市村)がこれを灌漑用水として利用したいと要請した。1667年(寛文7年)にこれが許可され、1669年(寛文9年)に水路を拡幅するなどの工事が行われた。これにより仙川用水のうち境分水口から野川分水口までの区間を含めて品川用水となる。
    拡張工事にあたり水路のために土地を供給することとなる旧仙川用水流域および世田谷領各地に対しては様々な形で補償がなされた。このような補償の一環として分水口を設け用水の使用権を与えるという約定が締結されたが、これが後に用水量に関わる紛争の原因となる。旱魃が起きると品川領では用水の流量不足が起き、品川領各宿村は上流の分水口を廃止するよう訴えを起こした。
    この問題を解決するため1691年(元禄4年)に再び拡張工事が行われる。工事自体は御普請すなわち幕府の費用で行われたが、水路の改修や維持管理、見廻りにかかる費用は受益者である流域各村が負担したため、水利権をめぐる紛争は続いた。また盗水や水路破壊事件も度々発生した。
    ●明治以降 – 1868年(慶応4年)、明治維新により玉川上水と神田上水が新政府に接収され、玉川上水の分水である品川用水も明治新政府の管理下に入った。1871年(明治4年)には東京府に管轄が移り、地租改正によって新井宿村・下大崎村が新たに品川組合に加わったことにより、1876年(明治9年)には両村が品川用水組合に加入することとなった。仙川組四ヶ村と品川領九宿村からなっていた品川用水組合はこれにより四ヶ村十一宿村体制となった。
    1890年(明治23年)に水利組合条例が通達されると品川用水組合は改組、品川用水普通水利組合となった。
    1932年(昭和7年)、品川用水普通水利組合が解散。用水の管理は三鷹町(現・三鷹市)へ移管され、灌漑用水としての役割を終えた。以後は部分的に暗渠化され排水路等として利用され、開渠部分も1950年(昭和25年)から1952年(昭和27年)にかけてゴミなどで埋め立てられて姿を消した。  (wikipedia・品川用水より)]


      (「PDFファイル 4021KB – 三鷹市」より)]