品川道(「汐汲 (しおく)み・お浜降り」行事)

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    国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。)

    今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。

    「江戸時代の道 第2回|品川区 – 品川区 Shinagawa City」で、大國魂神社の祭礼に先だって行われる「汐汲 (しおく)み・お浜降り」行事に関わる品川道について下記のように記述されています。
    府中調布に残る「品川道」は現在でも、大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)の祭礼に先だって行われる「汐汲 (しおく)み・お浜降り」行事のため利用されています。
    毎年5月5日に行われる大國魂神社の祭礼は「くらやみ祭り」と呼ばれ、4月30日に行われる「お浜降り」行事に始まります。
    「お浜降り」行事は、「品川海上禊祓式 (しながわかいじょうみそぎはらえしき)」といい、神職および役所が荏原神社わきの目黒川から注連縄 (しめなわ)を張った船を漕ぎ出し、お台場をすぎたあたりで禊 (みそぎ)(口や手を海水で清める)をしたあと、長柄の柄杓で汐水を汲み上げ、樽に入れて持ち帰り、この汐水で大祭中、禊ぎをするというものです。  
    「汐汲み・お浜降り」行事の起源は、康平5年(1062)源頼義義家親子が安倍貞任を討つために奥州へ遠征した時に、品川の海から海水を汲んできて府中明神に戦勝を祈願したのが始まりとされています。
    江戸時代には、毎年4月25日に神官、神馬の一行が早朝、府中を立ち、現在の荏原神社に来て、天王洲の海で禊ぎをして汐を汲み、その日のうちに府中に戻っています。 
    それでは府中から品川まで、どのような道筋を通っていたのか、大国魂神社の神主の日記「六所宮神主日記」から推測してみましょう。 
    安永8年(1779)4月25日に、府中を発って、「金子」「馬引沢」「目黒」で休息しながら品川宿に着いたと書いてあります。
    「金子」は現在の調布市西つつじが丘付近、「馬引沢」は世田谷区上馬下馬付近、目黒は目黒不動ですから、府中から甲州街道を通って調布へ、そこから豪徳寺付近を抜け、品川用水沿いに目黒区に入り、目黒不動門前の茶屋で休み、氷川神社安楽寺の前を通って目黒川に沿って下り、居木橋の付近から南馬場に抜けて、荏原神社へというルートが、大國魂神社の祭礼の「品川道」の道筋ではないかと考えられます。』

    上記記述のルートについて設定してみました。ルート設定については「江戸御場絵図」と「今昔マップ on the web」を資料にしましたが、府中市の出発点を大國魂神社東鳥居前の京所(きょうづ)石碑前としました。
    まず、京所道を進み、府中競馬場正門前駅で左折し、旧甲州街道に出て右折。東府中駅前で右折し、品川街道を進みます。途中右側に常久(つねひさ)一里塚跡があり、江戸初期に整備された甲州街道の日本橋から七里のところに設けられた一里塚の跡と伝えられているものです。その先、西武多摩川線白糸台駅南踏切り手前左に「東 品川 西 府中 道 上車返村」「嘉永六丑年四月吉日 昭和三年三月改造」と刻印された品川道庚申塔があります。
    西武多摩川線白糸台駅南踏切りを渡り、さらに品川街道を進み、調布市飛田給1丁目で右折し、すぐに左折し旧品川みちを進みます。京王線飛田給駅手前・府中市と調布市の境界を右折し、旧品川道に入ります。飛田給駅手前の小路先、旧甲州街道角に飛田給薬師尊・行人塚があります。
    飛田給駅西踏切を渡り左折して、旧品川みちを進み、大田塚交差点で、品川通りに合流します。
    品川通りの調布駅南入口交差点で右折して旧品川道(いかだ道)にいったん入り、その後再度品川通りに合流し、享保20年(1735)造立の椿地蔵前を通り、享保14年(1729)年銘の庚申塔がある、国領町5丁目交差点で左折します。
    京王線国領駅前に出て、旧甲州街道に出ます。旧甲州街道を右折して、旧甲州街道入口交差点で甲州街道に合流します。甲州街道を北東に進むと、菊野台交番前交差点手前左に妙円地蔵があります。金龍寺前を通り「金子(調布市西つつじが丘)」を抜け、甲州街道・瀧坂旧道にいったん入り、坂上で再度甲州街道に合流します。甲州街道・瀧坂旧道の坂下、甲州街道南側には寛政十二年の庚申塔、坂上には瀧坂旧道・馬宿川口屋道標があり、瀧坂は、甲州街道が整備される以前から江戸と武蔵国府の府中方面を結んでいた古道「瀧坂道」の名称由来地になります。千川二丁目交差点を右折して、瀧坂道に入ります。
    滝坂道を進み、天和2年(1682)に建立された道標を兼ねた上祖師谷5-8-1 庚申塔上祖師谷神明社前を通り、仙川に架かる宮下橋を渡ると、安穏寺坂にかかり、坂下に岩船地蔵尊・庚申塔・馬頭観音があります。安穏寺前を通り榎交差点で瀧坂道と分かれ、右折します。右折したこの道は六郷田無道と言われているようです。この道は塚戸十字路交差点から千歳通りになります。千歳通りを進み、環八通りとの交差点・環八船橋交差点を抜けます。この交差点に品川用水に架かる稗柄橋(ヘエガラ橋)があったそうです。
    小田急小田原線千歳船橋駅西ガードを潜り、左折して城山通りに入り、二筋目を右折し稲荷森稲荷神社前を通ります。
    黒駒街道(登戸道-現世田谷道)から分かれ府中方面へ抜ける黒駒裏街道(横根道)は稲荷森稲荷神社前を通っていて、神社は、道中往来の人の崇敬を集め、特に雨を凌ぎ暖をとるのに絶好な神域であったと伝えられています。
    府中方面へ抜ける道としては、小田急小田原線千歳船橋駅西ガードを潜ってすぐ左折して、三筋目を右折し、すぐ左折し、突き当りを右折し、すぐのT字路を左折して北西に進み、下祖師谷神明社前を進み、仙川を渡り、祖師谷観世音堂前を進み、成城通りで右折しすぐ左折、突き当りを右折して、すぐ左折、上ノ台の庚申塔前を右折して、またすぐ左折、突き当りを左折して中央学園通りを進み、百万遍供養塔過ぎて左折し、明照院糟嶺(かすみね)神社を迂回して、松原通りに出て、野川を渡り御台橋跡に出るルートだが考えられます。
    もとに戻り稲荷森稲荷神社前を進みますが、この道は、荏原郡経堂在家村と荏原郡世田ヶ谷村との境界になっているようです。さらに進み、世田谷ボロ市通りに出ます。世田谷ボロ市通り突き当りで右折して、駒沢公園通りを渡り、国道246号(玉川通り)に出て、左折して、道路南側二筋目の小路を右に入ります。この道を東方向に進み、突き当りを左折して、すぐ右折します。ここから先の道は、世田谷区と目黒区の境界になっています。環七通りとクロス交差をして渡ります。渡った先の道路に沿って品川用水が流れていました。品川用水は目黒通り、目黒郵便局前交差点まで道路に並行して流れていました。目黒通りで、品川用水跡と分かれ左折します。目黒通りを進み、金毘羅坂の坂途中(目黒寄生虫館)から右折し、瀧泉寺(目黒不動尊)西側を迂回して、門前に出ます。
    瀧泉寺(目黒不動尊)門前町を進み、かむろ坂通りを左折して、東急目黒線不動前駅北高架を潜り、桐ヶ谷氷川神社、安楽寺前を通り、中原街道を左折し、山手通りを進み、居木橋を渡り、第一京阪に出ます、第一京阪を左折して目黒川を渡って左折し荏原神社に向かいます。
    瀧泉寺から居木橋に抜ける道は、霊源寺前を通り百反坂を下るルートもありますが、祭事のため火葬場前は避けたと思われます。