唐津藩小笠原家下屋敷跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP500・コマ番号294/553から唐津藩屋敷の変遷について記載されています。P503・コマ番号295/553「下屋敷 深川高橋 深川町東森下町」がこの地になります。

小笠原長国
[小笠原 長国(おがさわら ながくに)は、信濃国松本藩主・松平光庸の長男。幼名は賢之進。文政7年(1824年)7月9日生まれとも言われている。
天保11年(1840年)10月に肥前国唐津藩先代藩主・小笠原長和が死去した後、翌年4月5日にその養嗣子となって跡を継いだ。飢饉などで破綻寸前となった藩財政を再建するために、捕鯨業や炭鉱業の育成・奨励に努めている。
初代藩主・小笠原長昌(長昌の死後、短命の養子藩主が続き、長国は4人目の養子藩主にあたる)の遺児である長行が成長したため、安政2年(1855年)頃からは長行に藩の実権を譲って、藩政改革を行なわせている。しかしこのため、長国を支持する大殿派と長行を支持する若殿派に藩内が分裂して、派閥対立が起こる。長国はこれを鎮めるために長行を養嗣子としている。
長行は幕末期に老中を務めており、養父である長国も佐幕派であり、慶応4年(1868年)の戊辰戦争でも新政府に容易に与しようとしなかった。このため、唐津藩は近隣の諸藩から討伐対象となり、さらに朝敵の汚名まで着せられそうになったことから、長国は佐賀藩前藩主鍋島直正を通じて新政府に降伏を申し出た。このとき、最後まで幕府に忠義を尽くして箱館まで転戦していた長行との養子関係を義絶している。
明治2年(1869年)、版籍奉還により知藩事となったが、明治3年(1870年)に藩内で一揆が起こっている。明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となった。  (wikipedia・小笠原長国より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五年・1852年)」(絵図四つ切リ左上に小笠原佐渡守(小笠原長国)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は森下三丁目(江東区高橋14南東角)交差点で、カメラ北西方向江東区森下2丁目3までが唐津藩小笠原家下屋敷跡になると思います。(唐津藩小笠原家下屋敷跡範囲:江東区高橋13,14,江東区森下2丁目3~13)