「Google Earth で街並散歩(江戸編)」で取り上げた掘割跡のページをまとめてみました。
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●道三掘 – 天正18年(1590年)に、江戸城へ物資を運ぶ船入り堀として、江戸城の和田倉門橋から平川の河口の呉服橋門まで開削され、明治43年(1909年)に埋め立てられた。 (wikipedia・道三堀より)
●外濠 – 慶長期江戸城の外郭である外濠川の開削時期は2説あり、一つは関東入国から開幕前の平川移設時に開削されたとの説(別本慶長江戸図)、もう1つは1606年よりの天下普請による江戸城の建築・整備をする際に、日比谷入江埋立と並行して開削された説がある。川の西側は譜代大名の上屋敷が軒を連ねる武家地、東側は町人地として計画され、川にはいくつかの門が設けられた。
江戸時代以来、近年にいたるまで水運の要としても機能してきたが、戦後に瓦礫処理のために埋め立てが進行。1950年(昭和25年)頃までにはその大部分が埋め立てられ、1959年(昭和34年)には呉服橋付近を若干残して水路としての外濠(外濠川)は消滅した。 (wikipedia・外濠_(東京都)より)
●西堀留川、東堀留川 – 日本橋川から北側に入り込む入堀であった。西堀留川は戦前から埋立てが開始され、昭和3年には消滅している。東堀留川は戦後の残土処理などのため、昭和23年から埋立てが始まり、昭和24年には消滅している。 (wikipedia・東堀留川より)
●楓川 – 江戸時代にこの近辺の土地が造成・整備され、その際に出来た人工の堀が楓川である。江戸初期のころは楓川よりさらに櫛型に運河が多数掘られていたが大部分は江戸時代に埋め立てられた。江戸時代以前は楓川付近は海岸線付近であったと考えられる。埋立は1960年(昭和35年)から始まり、1965年(昭和40年)には水路としての楓川は完全に消滅した。 (wikipedia・楓川より)
●京橋川 – 京橋川は江戸時代に開削された人工の河川である。埋立ては1954年(昭和29年)から始まり、1959年(昭和34年)には水路としての京橋川は完全に消滅した。 (wikipedia・京橋川_(東京都)より)
●八丁堀川 – 京橋川・楓川より亀島川を連絡する運河として1612年に開削されたといわれる。 近年に至るまで水路として利用されていたが、1960年(昭和35年)から段階的に埋立が始まり、1969年(昭和44年)に水路としての桜川は完全に姿を消した。 (wikipedia・桜川 (中央区)より)
●新川 – 現:新川一丁目内を、亀島川から隅田川にかけて東西に流れていた新川は、1660年(万治3年)に豪商の河村瑞賢が開削したといわれる。『武江年表』によればこの年瑞賢が両国橋を架け替えたとされているが、新川を開削したかどうかは明らかではない。ただし瑞賢の屋敷が貞享の頃この新川付近にあったことは確かである。また江戸時代には川沿いに酒問屋が多く集まって繁盛していたと『江戸名所図会』には記されている。1948年(昭和23年)から戦後の残土処理のために埋め立てが開始され、昭和24年には完全に消滅した。 (wikipedia・新川 (東京都中央区)より)
●三十間堀 – 三十間堀川は慶長17年(1612年)に江戸の舟入堀を整備するために、西国大名に工事を命じて開削された堀で、江戸前島の東の海岸線を利用して造られた。第二次世界大戦後、東京の中心地である銀座に残された瓦礫処理を急ぐようGHQから東京都へ命令があり、都は手近な三十間堀への残土投棄を決定した。1948年(昭和23年)6月から埋立が始まり、1949年(昭和24年)7月には埋立が完了し、水路としての三十間堀川は完全に消滅した。 (wikipedia・三十間堀川より)
●築地川 – 江戸時代、この界隈の土地が造成され、海から陸になった際に埋め残された部分が築地川となったと考えられる。築地川は、数度にわたる埋め立ての結果、本流の大部分・東支川・南支川・連絡運河は完全に消滅し、現在では本流が河口付近に750m程残っているのみとなっている。
●汐留川 – 17世紀・江戸時代に入ると江戸城総構えおよび江戸市街の整備工事が進み、日比谷入江は埋め立てられたが、そこに人工の水路が切られ、溜池からの流れは外濠の一画として東へ導かれる形となった。 後にその河口部の海を埋め立てて浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)が建設されると、それを取り囲むように水路は延長される形になったが、とくに浜御殿の西縁にあたる水路を指して汐留川と呼ぶようになった。虎ノ門から幸橋までは明治時代中に埋め立てられ、建築用地に転用されている。土橋から下流は1951年(昭和29年)から埋め立てが始まり、その後東京高速道路の用地になったこともあって、1963年(昭和38年)には最下流部(浜離宮庭園西縁および南縁)約900mを残すのみとなった。
●割下水 – 道路の真ん中を掘り割った(溝よりも大きい)下水路。湿地帯を築地して造成された本所は、水はけが悪いので掘られた排水路。両国橋(仮橋)が架かった翌年の万治3(1660)年に完成。 (「割下水 – FC2」より)
●六間堀 – 六間堀は昭和26年(1951)に埋め立てられた。 (「No.14 森下・六間堀の細道 – Insight x Inside」より)
●五間堀 – 昭和11年(1936)・昭和30年(1955)の2度の埋め立てにより、現在、五間堀は全て埋め立てられています。五間堀が開削された時期は、明暦の大火(1657)によって付近一帯の再開発がなされた万治年間(1658~1660)ころか、それ以前と考えられます。 平成12年(2000)3月 江東区教育委員会
●油掘 – 元禄14年(1701)新しい木場が誕生しました。この新たな土地の造成によって、すでに元木場周辺に開かれていた掘割を東へと延伸することになります。こうして開かれた掘割が仙台堀・中之堀・油堀でした。 (「元木場の掘割─「堀割網」の原型─」より)
油堀は堀川と云う名で1970年代半ばまで残っていたが1976年に埋め立てられ、1980年にはその上に首都高速9号深川線が開通した。 (「勝夢酔(小吉)居住地跡 – FC2」より)
●黒江川 – 『江東区史』には寛永6(1629)年の埋め立てによって出来た川筋であると記されている。明治に入り埋め立てられたが、明治期の地図上では年代によって堀留となって残る様子が見てとれ、いちどきにではなく、数十年をかけ次第に埋め立てられていったらしいことがわかる。 (「一色九月堂 ic9 TOKYO WebMAGAZINE」より)
●曳舟川・中居堀・古川 – 安政新刻隅田川向嶋繪圖の隅田川西岸の弘福寺と長命寺間に描かれる河川は(実際はもう少し上流)古川で、俗にばん堀(鷭堀)ともいう。洲崎村と寺島村の境川であった。
この古川と交差する河川が曳舟川で、中川から取水し向島地域を縦貫していた。開削されたのは万治頃(1658年 – 1660年)といわれ、別に本所上水といい、上水道と計画されたが水質は悪く享保7年に廃止され、灌漑用の一般河川となった。曳舟川から分岐する小河川は中居堀と考えられる。 (「江戸切絵図散策」より)