かねやす

マーカーはかねやすです。

かねやす
[現在の本郷三丁目交差点角に店を構える「かねやす」は1735年に歯科医兼康祐悦が乳香散という歯磨き粉を売る店として開店してから小間物屋として現代まで営業を続けており、1730年の大火の再興の際大岡忠相がここ以南の江戸城に近い側を土蔵造りの塗屋にすることを命じたためこれを指して「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」という川柳が残されている。この句は「かねやす」開店当時(当時は「兼康」。元祖争いがあり、町奉行によりひらがなで書くこととする裁定がくだる)の江戸町奉行所の管轄範囲の北限も示しており、ここまでがいわゆる「江戸」であった(なお、最終的な町奉行の管轄範囲は1818年に「墨引」として明確化され、北限は現在の駒込駅付近まで拡大している)。  (wikipedia・本郷_(文京区))より]

[かねやすは東京都文京区本郷三丁目に存在する雑貨店。江戸の範囲を現す、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳で有名。「かねやす」を興したのは初代・兼康祐悦(かねやす ゆうえつ)で、京都で口中医をしていた。口中医というのは現代でいう歯医者である。徳川家康が江戸入府した際に従って、江戸に移住し、口中医をしていた。元禄年間に、歯磨き粉である「乳香散」を製造販売したところ、大いに人気を呼び、それをきっかけにして小間物店「兼康」を開業する。「乳香散」が爆発的に売れたため、当時の当主は弟にのれん分けをし、芝にもう一つの「兼康」を開店した。同種の製品が他でも作られ、売上が伸び悩むようになると、本郷と芝の両店で元祖争いが起こり、裁判となる。これを裁いたのは大岡忠相であった。大岡は芝の店を「兼康」、本郷の店を「かねやす」とせよ、という処分を下した。本郷の店がひらがななのはそのためである。その後、芝の店は廃業した。享保15年、大火事が起こり、復興する際、大岡忠相は本郷の「かねやす」があったあたりから南側の建物には塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺きを禁じ、瓦で葺くことを許した。このため、「かねやす」が江戸の北限として認識されるようになり、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳が生まれた。東京(江戸)という都市部において度重なる大火や地震、戦災を経ても同一店舗が400年にわたって存在するのは珍しい事例である。なお、現在は7階建てのビルとなっており、2階以上にはテナントが入居している。
かねやすビル全体(2011年6月3日撮影)・wikipedia-photo、現在のかねやす(2011年6月3日撮影)・wikipedia-photo、「本郷も かねやすまでは 江戸の内」(店頭)・wikipedia-photo  (wikipedia・かねやすより)]

カメラ南南西方向がかねやすです。

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