三河稲荷神社

マーカーは三河稲荷神社です。

三河稲荷神社
[徳川家康公が江戸開府のおり、先勝祈願が叶う、ご自身のお守りとして信仰していた三河稲荷の末社を吹上に奉遷された後、現在の地に遷座した。2月最初の午の日の行事として「本郷初午行灯(ほんごうはつうまあんどん)まつり」を行っている。  (「文京区ホームページ – 三河稲荷神社(みかわいなりじんじゃ)」より)]

[もともとは、三州碧海郡上野庄(現在の愛知県)の稲荷山に鎮座していた。当時、徳川家康公は、稲荷山の迎接院隣松寺にいくさの陣を構えていた折、当社に先勝祈願をして無事勝利を得ることができたと言われている。その後、徳川の御守りとして、信仰していた隣松寺(愛知県豊田市)三河稲荷の末社を、天正18年(1590年)の江戸入国に合わせ、吹上に造営奉遷したことに始まる。慶長11年(1606年)には、仲間(下級役人の仲間)が拝領の大縄地に移住した時に、大縄地の氏神として奉遷し、元禄7年(1964年)に町地になると本郷元町と改称し、一丁目と二丁目の氏神として鎮座した。以来、町内の鎮守として浄土宗 昌清寺内にて祀られていたが、明治2年の神仏混淆の禁令によって昌清寺と分離し、元町二丁目三番地に遷座することになる。そして、明治26年3月に本郷給水所が設置されることになり、現在地に遷座することになる。その後、大正12年9月には、関東大震災によって全焼するも、氏子崇敬者の方々の篤い御寄進によって、翌年6月には本殿拝殿神楽殿・社務所が完成、現在に至る。  (「神社人 – 三河稲荷神社 」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 浅草下谷本郷辺絵図」(コマ番号4/5・絵図中央付近「安藤九郎左衛門」左に「昌清寺」が描かれています。)

※大縄地(おおなわち);江戸時代、武家地において拝領屋敷を割り与える場合、同じ組に属する武士に敷地内の細かい区分を行わず一括して一区画の屋敷を与え、これを同役仲間で分ける事が大縄であり、その屋敷地を大縄地と呼ぶ。「日本史大事典」平凡社

三河稲荷神社 – Google Map 画像リンク

カメラ東北東方向が三河稲荷神社です。

三河稲荷神社拝殿前のカメラです。

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