大圓寺

マーカーは大圓寺です。

大圓寺
[慶長2年(1597)開創。はじめ神田柳原にあったが、慶安2年現在地に移り久しく「駒込の大圓寺」と呼ばれた。墓域には、幕末の先覚者であり砲術家の高島秋帆、小説家であり樋口一葉を終生助けた斉藤緑雨が眠っている。また、八百屋お七との縁のあるお寺で山門真正面にある「焙烙地蔵」は、八百屋お七ゆかりの地蔵である。  (文京区ホームページ – 大円寺(だいえんじ) ほうろくじぞうより)]

[ほうろく地蔵 大円寺(向丘一-十一-三)内
 “八百屋お七”にちなむ地蔵尊。天和2年(1682)におきた天和の大火の後、恋仲になった寺小姓恋しさに放火の大罪を犯し、火あぶりの刑を受けた“お七”を供養するために建立されたお地蔵様である。寺の由緒書によると、お七の罪業を救うために、熱した焙烙(素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされている。享保2年(1719)に、お七供養のために、渡辺九兵衛という人が寄進したといわれる。その後、このお地蔵様は、頭痛・眼病・耳・鼻の病など首から上の病気を治す霊験あらたかなお地蔵様として有名になった。お七が天和の大火の時に避難し、墓もある円乗寺はすぐ近くにある。平成元年3月 東京都文京区教育委員会]

[高島秋帆の墓 國指定史跡
秋帆、1798~1866(寛政10~慶応2)。長崎の人。諱は茂敦、通称四郎太夫。秋帆は号。幕末の砲術家。アヘン戦争国が敗れたことを知り幕府に洋式砲術の採用を建議し、1841年(天保12)武州徳丸原(板橋区高島平あたり)で洋式砲術演習を行った。翌年、鳥居耀蔵のいわれなき訴えによって投獄され、のち追放に処せられた。ペリー来航とともに許されて、1857年(安政4)富士見御宝蔵番・兼講武所砲術師範役を命ぜられた。
斎藤緑雨の墓
緑雨、1867~1904年(慶応3~明治37)。三重の人。名は賢(まさる)。別号を正直正太夫。明治時代の小説家で、戯作風の「油地獄」「かくれんぼ」などで文壇に名をなした。かたわら種々の新聞に関係して文筆を振るう。終生妻子を持たず、俗塵に妥協することなく、文学一筋に生きた人である。森鴎外幸田露伴とともに「めざまし草」の匿名文芸批評執筆者の一人で、樋口一葉の「たけくらべ」を絶賛した。
墓碑銘は幸田露伴書 曹洞宗 金龍山大円寺 平成8年3月 文京区教育委員会]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本郷湯島絵図」(絵図右端中央上方向付近・御先手組の右に大圓寺が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [33]貮拾壹元」(コマ番号2/7・地図中央右端に大圓寺が描かれています。)

金龍山 大圓寺 – Google Map 画像リンク」、「ほうろく地蔵尊 – Google Map 画像リンク

カメラ東北東方向が大圓寺山門です。

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